空っぽの人間
つい先日の地震で部屋が荒れてしまったのでついでに掃除をしていたら出てきた走り書きです。
書いたのはおそらく大学1年の冬あたり。
この文章では、、、「内なる自己」と「外部へ出力されている自己と認識され得るもの」が異なっているために自己を定義できずにいる。
また現実を生きていると、他人から認識され自己を判断される瞬間(=他人との関係性の構築)がないと私は現実に存在していないのと同義である。
ゆえに「内なる自己」など存在せず、外部から見られる私こそが本当の姿であると結論づいています。
この人は明るい人だ。
この人は聡明にみえる。
こう言ったラベルこそ「私」の真実の姿だ。
他人からラベルづけされた時に肯定もできず、真っ向から私はこうだ!という気概も具体的な内容もないので、私は自分が空っぽの人間に見えたのでしょう。
わかりやすいほど私がわからないのです。
ではなぜ私は私がわからないのでしょう。
この文章においてキーワードなのは「一方で他人に私は心の中を全て曝け出すことはしていない。」です。
「心に秘めている本音」を後半では「内なる自己」と言い換えました。
「内なる自己」とは精神世界を表し、世界の中で漂っているだけでは現実には何も反映されません。
何を思っていても考えていても出力されなくては残念ながら現実には存在しないのも同然なのです。
これは他人に対してだけでなく、私自身に対しても同様です。
私は〇〇である。
こう言うためには穴埋め問題を回答しなくてはならないのです。
〇〇が精神世界の無重力空間でふわふわしたままならば当然自己は定義できません。
そしてこの問題に答えるための最短距離は結局のところ他人に定義してもらうことです。
(自分で自分を定義することは自己内完結の末、現実離れしていく危険性をはらみますし、膨大に時間がかかります。)
勇気を持って他人に心を曝け出すこと。
それこそが私を知る術である。
そのためにまずは精神世界にあるふわふわしたものを解読し、現実に棚おろしする必要があるのです。
そして精神世界のふわふわを解読するためには、兎にも角にも「言葉にすること」が不可欠で、「書くこと」はそれを手助けする強力なツールです。
そんなことをおよそ5年先の私は考えています笑
昔の文章にコメントをつけるのは面白い笑
私がきちんと文章を残すようになったのは大学4年の秋頃からです。
それまでは考えを書き起こすことをしていなかったので当時考えていたことの大部分は忘れてしまいました。
もったいないことをしたと思います。。。笑
では良い夜を!
PS
なんか私の文章構成力低くなってませんか???
やばいよ、なんでえええ!!
(多分考えがまとまりきる前に書こうとしているから、逆に言うと言葉が現在進行形の精神世界へと繋がってきているからだと信じたい。。。)
松澤
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