空っぽの人間

みんなはどのようにして自分を曝け出すのだろうか?
私はどこまでが自分の本音でどこまでが建前なのかわからない。
しかし他人は私の本音と建前に境界を設ける。
私が本当にそう思っているように話せば本音で、繕っているように見えれば建前だ。
「私」を決めるのはだれだろう?
アイデンティティを持っていない人間にとってこの問いは難しい。
「アイデンティティ=自分のもっている考えの核」とする時、私は自分を考えの核なしに決めなくてはいけない。
とは言っても、核なしに自分を定義するなんてリスキーなこと私にはできない。
つまり、自分では「私」を定義できない。
他人は容赦無く私を分析し、性格判定する。
やはり他人こそが私を定義するのか?
一方で他人に私は心の中を全て曝け出すことはしていない。
では今、私と定義されている私は誰なんだろう?
ここまで書いて思うのは、自分を知りたいという欲があるということだ。
でも同時にすでに知っていると錯覚することがある。
私は「アイデンティティを持たない」アイデンティティを持つ人間ではないかと。空っぽな人間、これまで自分を作ることができなかった人間。
そんなような気がしてとても悲しい。

つい先日の地震で部屋が荒れてしまったのでついでに掃除をしていたら出てきた走り書きです。
書いたのはおそらく大学1年の冬あたり。

この文章では、、、「内なる自己」と「外部へ出力されている自己と認識され得るもの」が異なっているために自己を定義できずにいる。
また現実を生きていると、他人から認識され自己を判断される瞬間(=他人との関係性の構築)がないと私は現実に存在していないのと同義である。
ゆえに「内なる自己」など存在せず、外部から見られる私こそが本当の姿であると結論づいています。

この人は明るい人だ。
この人は聡明にみえる。
こう言ったラベルこそ「私」の真実の姿だ。
他人からラベルづけされた時に肯定もできず、真っ向から私はこうだ!という気概も具体的な内容もないので、私は自分が空っぽの人間に見えたのでしょう。

わかりやすいほど私がわからないのです。
ではなぜ私は私がわからないのでしょう。

この文章においてキーワードなのは「一方で他人に私は心の中を全て曝け出すことはしていない。」です。

「心に秘めている本音」を後半では「内なる自己」と言い換えました。
「内なる自己」とは精神世界を表し、世界の中で漂っているだけでは現実には何も反映されません。
何を思っていても考えていても出力されなくては残念ながら現実には存在しないのも同然なのです。
これは他人に対してだけでなく、私自身に対しても同様です。

私は〇〇である。
こう言うためには穴埋め問題を回答しなくてはならないのです。

〇〇が精神世界の無重力空間でふわふわしたままならば当然自己は定義できません。

そしてこの問題に答えるための最短距離は結局のところ他人に定義してもらうことです。

(自分で自分を定義することは自己内完結の末、現実離れしていく危険性をはらみますし、膨大に時間がかかります。)


勇気を持って他人に心を曝け出すこと。
それこそが私を知る術である。

そのためにまずは精神世界にあるふわふわしたものを解読し、現実に棚おろしする必要があるのです。

そして精神世界のふわふわを解読するためには、兎にも角にも「言葉にすること」が不可欠で、「書くこと」はそれを手助けする強力なツールです。



そんなことをおよそ5年先の私は考えています笑

昔の文章にコメントをつけるのは面白い笑

私がきちんと文章を残すようになったのは大学4年の秋頃からです。
それまでは考えを書き起こすことをしていなかったので当時考えていたことの大部分は忘れてしまいました。
もったいないことをしたと思います。。。笑

では良い夜を!

PS
なんか私の文章構成力低くなってませんか???
やばいよ、なんでえええ!!
(多分考えがまとまりきる前に書こうとしているから、逆に言うと言葉が現在進行形の精神世界へと繋がってきているからだと信じたい。。。)

松澤

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