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その青い世界、赤い冒険者が歩く時 中編 #1、冒険者、赤の世界に変えることに

 千葉県に帰るとき、私は母親に一応復職することを伝えて家を出ていきました。この時の思い出でなのですが、新幹線の中で作ってもらったおにぎりとお茶を飲んだことは今でも忘れていません。逆にこの時のそれ以外のことは何も覚えていませんでした。
 
 いつものように、いつもの手順で千葉県にある自分の寮へたどり着きました。
 
 1年ぶりに出迎えてくれたのは寮母さんで、私は何となく「ああ、帰ってきたんだ」と感じました。寮母さんはすごく世話好きな人でしたね。私がいない間にもトイレの水を流したりと部屋の管理をしてくださっていました。
 
 会社に行くまでにはまだ日数が有ったので荷物を整理して、自分の車とバイクを確認しました。バイクの方はほぼダメになっていましたが、車は同期が毎週何かしらで使ってくれていたのでバッテリーなどは上がっておらず、普通に乗ることが出来ました。感謝の気持ちしかありません。
 
 会社の寮は今振り返っても「好立地」でした。まず、車で5分圏内にコンビニ3軒、イオンのアウトレットモール。ホームセンターがあります。しかも信号がありません。車を運転するのも久しぶりだったのでイオンにいって夕食を買って、ホームセンターでゴミ袋を買ってきて、コンビニで煙草を買って。
 
 部屋がホコリにまみれていたので掃除をしたり、冷蔵庫の中身もそのままだったので全部整理して・・・。ということをできる範囲でやりました。ひと段落するとパソコンを設置してゲームや配信ができるように整えました。
 
「・・・これで何とかやっていくしかない」
 
 私がバッグから取り出したのは漢方先生から作ってもらった処方薬と頓服用の漢方でした。この頓服用の漢方は水無しで服用することが出来るもので、急にドキドキしてきたり、不安になったとき、一時的に心を落ち着ける物です。
 
「お守りみたいなものでしたが、私にとってはこれが有る無しでは大分違います」
 
 名刺入れの中に常備3袋入っていました。それと喉の違和感が取れていなかったため、水分も常備するようになります。

 ここまで読んでいただいてわかると思いますが、私の病気は改善しましたが、完全に良くなっているわけではなく、何か悪いことが一つ繋がればあっという間に体調不良になる。そんな状況でした。中途半端な状態で復職しようとしていたわけですね。
 
「外に出て、自分で食べ物を買って、それで生活ができるかもしれない」
 
と少し安心しましたし、家族に迷惑をかけることも無くなったのも嬉しかったです。
 
 そして平日になりました。会社へ向かう時です。たしか上司が迎えに来てくれたのを覚えています。それで会社ではなくて事務所へ連れていかれて産業医との面談をして、復帰プランを言い渡されました。
 
 復帰プランをまとめると、2016年1月までは取り合えず会社に来ることをやってみること。この期間、業務は特にやらないこと。そして体調が悪くなったり、気分が乗らない時は帰宅しても良い事。これを2週間くらいやってみて再び産業医と面談をして、その結果復職が可能かどうかを判断すること。
 
こんな感じです。
 
 その後、上司は部署に私を連れて行き、みんなに顔を見せました。この時、色々言われたのは憶えていますが、何を言われたのかは記憶に全くないです。喫煙所で煙草を一本吸ってから上司が寮に私を送ってくれました。
 
 次の日。私はカバンに必要な物を詰め込んで乗り合いバスに向かいました。私の部署事務所は製鉄所の中にありまして、専門用語なのか分かりませんが製鉄所内を「構内」外側を「構外」と呼びます。
 
 構内は基本的に「入構許可車両」しか入ることが出来ません。若手のうちは毎朝運行される専用のバスに乗り込んで入ります。それと構内に入構するために必要なのは「安全教育を受けた人だけ」それを証明するのは社員証です。社員証をバスの運転手さんに見せてそれからバスに乗り込みます。
 
 片道約10分くらい。
 
 バスに揺られて構内に入ると1年ぶりのロッカーを開けて作業着に着替えて、それで部署事務所に向かいました。
自分の机に付くと置かれている書類に目を通しつつ、引き出しを開けてみたりしたのを覚えています。
 
 いつものようにラジオ体操の音楽が鳴り始め、全員がヘルメットを持って体操をやってそして朝礼が始まりました。
 
「いつもと変わらない光景が広がっていました」
 
 それが終わると上司に連れられて部長に挨拶に行き、その後、談話室的な場所で上司と業務について話しました。
 
 私がやっていた仕事はあまり詳しくは言えないのですが、電気機器の据え付け、メンテナンスなどの現場工事設計、監督業務、作業員、営業です。特に私は「出張班」に配属されていたので千葉県のみならず、茨城、愛知、大分、釜石・・・などの工場でも工事を行っていました。
 
 そこに戻すことは流石にまだ早いだろうとのことで、私は「試験班」に配属になりました。試験班とは直した電気機器がまともに動くかどうか検査するところで、早い話が上司も変わって、そんなに人もいらない場所。業務も忙しくはないので適していると判断されました。私が大卒で電気機器の研究をしていたということもありますので。
 
 試験班長に話をしに行くと「おう」と一言だけ。
 
 試験班長は良くも悪くもすごくさっぱりした人で、私にとって復帰先としては気楽にできたのが嬉しかったです。何よりも助かったのは班長からは病気のことも聞かれませんでしたし、休みに何をしていたのかとかも全く聞かれませんでした。
 
 それともう一つ私を楽にさせたのが大学の研究室の後輩がそこに配属されていたことです。彼は私の一つ下でしたが研究室活動で半年の付き合いがあり、部署に配属になった後も班は違いましたが交流はあったのです。
 
 これは今まで「工事的な業務」しかしたことがない私は見積もりや施工要領を書くこと、現場での作業はできましたが、「作業的な業務」に切り替わったことで、何をしたらいいのか分からなかったのです。試験班長に聞くのではなく、彼に聞けば良かったのです。
 
 「気軽に何でも聞ける後輩がそこにいたことが私にとって助けでした」
それと試験班は基本的に「午前中暇」なことが多かったです。これは直した機器を検査するのはメンテナンスをした後になるので、どんなに早くても午後から仕事になります。なので午前中やっていたことは
 
・後輩に計測器や社内の規定などを聞いたり、使い方を覚えたり。
・掃除とかメンテナンスが必要な工具を手入れしたり。
 
 多分一番役に立ったのは試験班長に頼まれていた「事務的な部分」エクセルやパワーポイントなどを使っていろんなものを作るということでした。
 
「松下がきたからそこらへん頼めるのはありがたい」
 
と言われたのを覚えています。パソコンでのそういった作業も負荷は少なく、何よりも求められる物のハードルが低かったので、楽でした。
 
 そうやって過ごしてはいたものの、私の体調はギリギリいっぱい。例えば今だから言えることなのですが睡眠時間が2時間でふらふらしてやっていた時も、昼ご飯がうまく食べられなくて困った時もありました。
 
ですが何とか2週間を超えると、その後の産業医面談で復職可能と言われ、

2016年1月に復職になりました。
 
それから私はまた同じように会社へ勤めることになります。
 
 ですが、体調はおぼつかない時もあったり、出社が困難になったこともあったり、早退することもありました。それによって
 
「会社に勤めている人たちの間で軋轢が生まれていくことになります」
 
 要するに特別扱い感がやや出始めていた頃になると、良くない噂を耳にするようになるのです。
 
 まず、私の業務について。それまでは出張班として働いていたため、自分がやったことが全て売上とか利益に繋がっていましたが、試験班というのは人数を増やしても、効率化してもそういうものに結び付きません。できる限り少人数でやった方がいいのです。
 
なので、喫煙所などで聞こえてくるのです。「松下の給料分を稼げていない」と。
 
 それと、体調不良になって早退などするときには先輩が送ってくれたりするのですがその時にも
 
「いい加減にしないと、お前、わがままになるのも大概にしろよ」
 
ということを言われました。
 
 これは仕方のないことです。こんなのに拳を振り上げている余裕はありませんでした。確かに上司と社員では目線も感覚も違いますからね。しょうがないです。今のところ上司は味方。ということだったので。
 
 しかし、それも崩れることになります。それは復職して3~4か月経過したある日のこと。
 
「松下、○○へ出張を頼みたいんだが行けるか?」と言われました。
 
 流石の私も言葉を失ったのを覚えています。なぜかというと、別にそれが不満だからということではなく、私のやってきたことと、今やっていることを照らし合わせても何の不思議でもなかったからです。
 
ですが私が今までと違うショックを受けたのが
 
 親も会社も何もかも、私の自己判断での言葉を一切受け付けてきませんでした。体調が悪いとか、何となく嫌な感じがするなどです。だからこそ、医師の診断を、医師の診断をという風に言われてきたのにも関わらず「上司や部署の仕事の量とかそういうわけのわからない物で私の扱いを決めた」ということです。
 
つまり、それまでは「医者の意見」という物が必要だったのに、急に医師の意見は必要なくなり、私にも相談なく、上司が自分の部署の業務の状態だけを見て、人員的に都合が悪くなってきて、私のやることを決めたということになります。
 
 その日を境に私は会社に行く足が重くなります。有給も消化しつつ、早退も繰り返しつつでした。もちろん、漢方先生との通話やゲームの配信などもやりつつになります。
 
 そうやって過ごしてきて7月になったある日のこと。上司に呼び出された私は有ることを言われます。

「松下、お前、有給があと何日残っているか分かって休んでいるんだな?」
 
 私は最初に「有給を意識しなくてもいいから」という風に言われていたので、そんなに気に留めていなかったというよりも、毎日が精一杯でしたのでそんな余裕はありませんでした。
 
「あと、半日も残っていないぞ。どうするんだよ」
 
 どうするんだよ。という風に言われてもどうしようもないです。病気には有給は関係ありません。有給が残り何日だからそれまでに治るのであれば、有給は神様か何かでしょう。
 
 社則がどうだったかは覚えていませんが、会社員には有給休暇というものが年間に何日か設定されています。そしてその有給の日数を超えて休むと「欠勤」扱いになります。この欠勤をどう扱うかは多分会社によってまちまちだと思います。当然、欠勤なので給料が発生しません。就業規則に「欠勤何日で解雇」みたいなのは絶対に書いてありますから。
 
私はこれ以上休むと欠勤扱いとなって、そのうちに解雇になります。
 
 病気のための休職の権利も使ってしまっていました。一応、復職して半年間勤務したことがあれば、もう一度休職の権利が与えられるのですが、再び休職するときの病名が「まえ同じ」であればそれは治っていないということになって、休職の許可が下りません。つまり休職も出来ないです。
 
「当たり前ですが、会社は健康で、毎日出勤できる人しか欲しくないのです」それを痛いくらいに感じました。
 
私の挑戦はここで終わったと思いました。
 
 私も内心「ああ、もうこの会社を去らなくちゃいけなくなった時が来たか」という風に感じていましたね。もうこれ以上は無理なんだ。休職もできないし、もう待ってはくれないんだ。・・・部屋の引っ越しとかどうしようか。
 
そんなことを考えていると、総務部から連絡が入ります。
 
「松下さん、休職の許可が下りました」
 
「はい?」 
 
私は耳を疑ったのです。


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この物語で書かれていることは全部「ノンフィクション」です。内容は私が2014年頃に病気になり、現在まで続くまでの時間に起きた出来事です。 …

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