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京都まで出張って書店に自著のセールスをした話(^^;

 さてわたくしは昨年12月、自費出版にてめでたく自著「苔の下道」の出版にこぎ着けました。
 いちおうは初版3千部という文芸書としてはプロ並みの部数を発行し、売れ残っても発売元の幻冬舎が引き取るという自費出版本としては非常に良い条件で出版ということになったのですが、所詮は自費出版本、作家とは名ばかりで、その実は、本を出したことのあるただの一般人に過ぎません。
 新人賞を取ってデビューした作家や有名作家の方々のようなネームバリューが全くない中では、本はなかなか売れるものではありません。
 特に文芸書は読むのに骨が折れますし、エネルギーが要ります。しかも拙著は古文で書かれているわけで、さらに読むのは大変です。自著の販売については先行きの困難さを予想していました。
 そこで一念発起して都内及び東京近辺の書店と東京大学、早稲田大学、慶応大学内の生協運営の書店を訪問して営業をかけてまいりました。
 その時の聞くも涙、語るも涙の奮闘努力ぶりはまた別途記事にしたいと思っております。乞うご期待! どうぞお楽しみに!(笑)

 そして今回は文芸書の本家本元の都である京都まで出向いて自著のセールスをいたしました。
 見よ! 威風堂々! このセールス4点セットを! 
ジャーン! 僕の本「苔の下道」、苔の下道パンフレット①、苔の下道パンフレット②、そして幻冬舎さんへの注文用伝票。

拙著 苔の下道
パンフレット①
パンフレット②
両パンフレットの裏面
幻冬舎注文用伝票


 初日に回りましたのは、立命館大学、同志社大学、そして京都大学です。

立命館大学
ジャジャーン! 同志社大学
お洒落!!
そしてジャジャジャーン! 京都大学
風格を感じます。

 まずは立命館大学に伺いました。こちらは幻冬舎さんから本日の僕の訪問のことが伝わっておりまして、店長さんとお話が出来ました。いちおう仕入れを検討してはみようかなということでしたが、ここには文芸書は文庫本以外は置いておりませんでしたので、難しいかなという印象でした。

 次に伺ったのは同志社大学です。赤レンガの建物群が立ち並んでいて、とてもおしゃれです。こちらも幻冬舎さんからの案内が伝わっておりまして、担当のTさんが応対して下さいました。

店内の様子です。

 そしてなんと! 僕が訪問するということで、1冊僕の本を仕入れて置いて下さっていました。(感涙)

威風堂々! 苔の下道!
撮影のため棚差しを平積みにしました (^^;

 そしてTさんはおだやかな感じのいかにも教養の深い知的な感じの素敵な方で、僕の話をしっかり傾聴して下さり、僕持参の苔の下道パンフレットを学生さんの目につくところに置いて下さるとのことでした。
 もう願ったりかなったりで、感謝感激ここに極まれりです。

 われ泣き濡れて新島翁とたわむる

 こんな気持ちになりました。さすが多くの文人、文化人を輩出した同志社大学内の書店の担当者でいらっしゃると思いました。

 そして最後に伺ったのが京都大学です。キャンパスは幾つかの区画に分かれており、その広大さに圧倒されました。

店内です。

 こちらは事前に幻冬舎さんの連絡が伝わっていなかったみたいで、飛び込み営業の形になってしまいましたが、担当のYさんが応対して下さいました。Yさんは常に深い思索にふけっていそうな哲学者的な雰囲気の方ではありますが、けして神経質な感じではなく、むしろ大らかな温かさが感じられる方でした。
 Yさんは、まずは2冊入れましょうとおっしゃって下さいました。いやもう、ありがたいのなんのって、あの天下の京大についに橋頭保を築いたぞ! と大きくガッツポーズをしたい衝動に駆られましたが、店内では我慢しました。でも店外に出た後で、ちょこっとだけ気持ちばかりのガッツポーズをしましたよ。(笑)

 今日の営業活動はこれでおしまいです。お昼も食べずに営業活動をしていましたので、京大の学生食堂に入ることにしました。ここは部外者でも利用できるんですね。

メニューの一部
どれも美味しそうです。そして安い!

 注文しましたのは古代米入りご飯大139円、ローストンカツおろしソース319円、豚味噌ちゃんこ煮275円、合計733円です。
 安くてボリューミー、そして美味しい。さすがです。酒が飲めないのが残念でしたが、そこは致し方ありません。

 そして食事が終わりましたら、なにか急に頭が冴えてきて賢くなったように感じられてきました。さすがは京大の飯です。食べると頭が良くなります。なんか西王母の仙桃を食べた孫悟空みたいなことになってまいりました。(笑)

 さて翌日は丸善京都本店を訪問します。開店から30分たった午前11時30分に伺いましたが、文芸担当者は12時30分に出社するとのことです。とりあえず訪問の意図を伝え、名刺を渡して出直すことにしました。文芸担当者はMさんとおっしゃるということでした。
 少し丸善内で立ち読みをした後、外に出て河原町通りをぶらぶらしておりました。
 すると12時30分過ぎに携帯に電話がありました。Mさんからです。幻冬舎さんから僕が本日訪問することはMさんには伝わっていなくて、結局飛び込み訪問という形になってしまったのですが、出社しましたのでいつでもお越し下さいと快くおっしゃって下さいました。さっそく伺うことにしました。

 Mさんもまた慎み深い物腰の中にあって、知性と教養を感じさせるとても素敵な方でした。
 僕の話をしっかり傾聴して下さり、質問も交えて更に私の話を引き出していただいてとてもうれしく思いました。
 さすが文芸の都京都を象徴する書店で文芸部門を任されている方だと思いました。何しろ京都からは古くは源氏物語、枕草紙、古今和歌集、新古今和歌集などが生まれております。万葉集も最終的に完成したのは京都に遷都した平安時代になってからといわれています。そして近代においては日本の短編小説の最高傑作といわれる梶井基次郎の檸檬が誕生したのは、ここ京都丸善書店においてなのです。
 まだかなりお若いとは思いますが、そういう歴史を背負っている責任感と凛とした風格を感じさせる方でした。
 そして僕の話を聞き終えると、拙著「苔の下道」を仕入れて下さり、また店内の顧客コーナーに拙著のパンフレットを置いて下さるとのことでした。
 そして僕が次は都踊りを観に4月に京都を訪れる旨を話すと、「その時には御本が店頭にあるようにいたしますね」とまでおっしゃって下さいました。本当に感謝感謝しかありません。あらためましてMさんには心からお礼を申し上げます。

丸善書店京都本店
風格と壮麗さを感じます。
そして梶井基次郎「檸檬」専用棚
しっかりレモンが添えてあります。(^^)

 昨日の同志社大学、京都大学と同じく報われた満ち足りた気持ちでお店を後にしました。
 「檸檬」をオマージュした文章が浮かんできました。

 私にまた先程の軽やかな昂奮が帰って来た。そして軽く跳りあがる心を制しながら、丸善を私はすたすた出て行った。 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。
 「苔の下道」があの丸善の棚に何冊も平積みになる様子を想像した。その隣の棚には「檸檬」が平積みになっている。
 そしてその一面の緑の色彩の上に檸檬を置く。 苔の緑と檸檬の色彩の対比、それはカーンと眼に飛び込んできて冴えかえっている。
 そして100年前の丸善と同じように、その丸善の棚の紡錘形の黄金色に光る恐ろしい爆弾は、エメラルド色に輝く「苔の下道」とともに大爆発をする。 そしてその大爆発のエネルギーで「苔の下道」は全国の書店へと散らばって行くのだ。
 私はこの想像を熱心に追求しながら四条河原町を折れ、祇園に向けて歩いて行った。

檸檬、苔の下道、レモン  (^^)v


言の葉の園を都に尋めゆくも ふみぞ入りぬることやあらむと

文芸の都
京都の書店を訪ねていくが
行きつけるだろうか
そして僕の本は
はたして
そこに置いてもらえるだろうか

「言の葉の園」ここでは書店のことです。
「ふみぞ入りぬる」
 「ふみ」は「文」と「踏み」の掛詞です。「文」はここでは僕の本のこと  
を指します。「文ぞ入る」すなわち僕の本が書店に入荷するという意味になります。
 「踏みぞ入る」すなわち京都の書店を訪ねていって行き着くという意味になります。
 このように掛詞によって二重の意味を持たせることが出来ます。

 はなから相手にされない飛び込み営業っていやなものです。気持ちを強く持たないと尻込みしがちになります。気分が乗らない日は、いろいろ理由をつけて営業に行くのをやめてしまったりします。「行きつけるだろうか」というのは、そんな漠然とした憂鬱な気持ち不安な気持ちを表しています。
 そして運よく担当者が会ってくれて話を聞いてくれたとしても、本を置いてくれるとは限りません。そして例え本を置いてくれたとしてもそれが売れるとは限りません。
 書籍は委託販売されるものですので、売れないまま返品されることも多いのです。

ふみ立つや賀茂の川浪立ちかへり 千代もと祈る諸人の上

神聖な禊の川
鴨川の河原に降り立つよ
繰り返し寄せる川浪
神の永遠性の象徴
そして祈る
皆人の身の上
いつまでも良かれと

人々に知られ
繰り返し読まれ
時を超える
なれるだろうか
永遠なる文
賀茂川に祈る


 上の歌と同じく、「ふみ」は「文」と「踏み」の掛詞です。「文」は僕の本のことです。「文立つや」すなわち本の評判が立つようになるだろうかという意味になります。「や」は疑問の係助詞の文末用法です。
 「踏み立つや」これは読んでそのままの意味です。鴨川の河原に踏み立つよ降り立つよという意味です。「や」はこの場合は呼びかけの間投助詞になります。 
 やはり上の歌と同じように掛詞によって二重の意味を持たせています。

「川浪立ちかへり」
 鴨川(賀茂川)は禊をする神聖な川なので、神の永遠性を象徴して「立ちかへり(繰り返し)」と詠まれることが多かったということです。
【歌枕歌ことば辞典増訂版 片桐洋一著 P119】

 自分に都合の良いことばかりを祈っても、神は振り向いてはくれないでしょう。まずは多くの人の幸せを祈らなくてはだめですよね。(笑)
 このようにこの歌に二重の意味を持たせました。

大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立

百人一首60  金葉集雑上550  小式部内侍

 僕の二首の歌の掛詞は、この有名な歌の「まだふみもみず」の技巧を利用しています。この歌も「ふみ」は「文」と「踏み」の掛詞で、天の橋立に行ったこともなければ、まだ手紙も見ていないという二つの意味を同時に表しています。


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