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戦後の合気道の特徴とは何だったのか弟子たちの証言から検証してみる

戦後とか戦前とか言うけど何が違うんだ!?というのを弟子達の証言から調べてみた。

基本的に公開情報のみでやってくよ。

前編はコチラ↓戦前バージョン

補足はコチラ↓


前提

1946年、戦争末期から岩間で療養しつつ指導、出兵していた弟子達も戻ってくる
1948年、吉祥丸が主導して財団法人合気会が設立、合気道を正式に名乗る
1949年、合気座談会をはじめ、各地で講演や実演を行う
1952年、合気道に段位制が導入され、弟子の海外派遣もはじまる
1955年、日本橋高島屋で吉祥丸が盛平を説得し、初となる弟子の演武も取り入れた演武会が開かれる
1957年、書籍『合気道』出版
1960年、それ以降毎年恒例となる大演武会が開催。
1961年、紫綬褒章、ハワイへの指導
1962年、『合気道技法』出版
1968年、本部道場落成
1969年、『武の真人』出版、4月26日昇神

参照した戦後の弟子

藤平光一 1939年入門 斎藤守弘 1946年入門
有川定輝 1946年入門 磯山博  1949年入門
多田宏  1950年入門 西尾昭二 1951年入門
阿部醒石 1952年入門 渡辺信之 1952年入門
田村信喜 1953年入門 黒岩洋志雄1953年入門
加藤弘  1953年入門 小林保雄 1955年入門
佐々木将人1954年入門 ノケ   1955年来日
藤田昌武 1956年入門 荒川博  1956年入門
山田嘉光 1959年入門 五月女貢 1961年入門
清水健二 1963年入門 菅沼守人 1967年入門

戦後の特徴

戦後の稽古

盛平が祝詞をあげ、体の変更、船漕運動、終末動作に呼吸法。
門人と一緒に準備運動をして、船漕ぎ運動3回と振魂を1セットとして3セット。
受身は取らず道場の中心で全員に技をかける。
岩間の場合は板の間なので投げは少なめで、易から難へ進むように、座り技から半身半立、立技へと移行してく稽古の流れ。
説明もほとんどなく体で理解する。その日の気分によって型が違った。

当初は痛く厳しい稽古で指導方針も固まっていなかったが、やがてひとつの技を習うとそれに関連した技をやり2〜4段階にわけて教える形に、シリーズのように技を教え、両手ならずっと両手。
座り技の時は一日ずっと座り技で足の甲の皮が剝げるほど。
稽古で次に移る時は、「次を申し上げます」という。

内弟子に隙があったらいつでも打ってこいといい、八百長と言われるような技を目指していた。

座り技呼吸法
盛平に呼吸法の稽古で両手を掴まれると、ビクとも動かない。手首が痛いとかではなく、全身を有効に使って中心を抑えられている。

四方投げ
四方投げには転換があり崩しがあり基本がある。
それ以外の稽古から始めると怒られ、まずは極めるまできちんとやるようにと言われていた。相手の手を剣と心得て動作しろ。

一教
戦後すぐの一ヶ条と晩年の一教はだいぶ変わった。

二教
手首に効かせる技だが、相手の一部を取って、全体を抑える技。だから軽く極められただけでも動けなくなる。

腰投げ
朝から晩までやっても疲れないと笑っていた。
最初は稽古されていなかったが西尾、黒岩が研究し、鍛錬として盛んに行われるようになった。合気投げも同様。

入身投げ
入身投げは動きの流れのなかに幾つもの当身が入る場面があり、そのままではあまりに早いので扇子で説明していた。

呼吸投げ
固め技ばかりだと飽きるので受け身の稽古として吉祥丸が導入。盛平は「そんな簡単に人はコケないよ」と否定的だった。小林によれば呼吸投げは演武会が始まってからだという。

当身
入身一足の理念で触れた時にすでに当身が入っている。
戦後初期は投げ技はほとんどなく入身投げ、小手返し、四方投げだけ。
昔は仕手からはじめていたが、相手が打ってこれるようにはずしてからはじまる。

気の錬磨
我より進みて攻撃の気を出すことを磁力の練磨と呼んでいた。

特別な人への指導
教え方は単純で一教、入身投げ、四方投げのみ。
他人には見せないようにして20万円ぐらい取って会社の社長などに特別に教えていた。
「それでいいんですか?」「馬鹿、これが極意じゃ」

固い稽古
固い稽古を60年やったという自信を持っており、本当の合気道は60歳からだ。60を過ぎないと本当の気力は出て来ない」と語ったという。

(斎藤・磯山・有川・奥村・阿部・西尾・荒川・佐々木・多田・小林・五月女・佐々木貴・清水・菅沼)

座り技重視

「合気道の極意を学ぶもの」
岩間の床は堅く座り技の稽古では膝から血がでるほどだったが、座り技がはじまるとひたすら座り技ばかり。
初期は稽古の半分が座り技で、一教から五教までと入身、小手返しを徹底的にやっていた。
座り技を稽古していると盛平の機嫌がよく、立っていると不機嫌なため、盛平が来ると座り技を始めた。

(斎藤・西尾・黒岩・小林・佐々木貴・五月女)

戦前からの変化

最初は痛くて厳しい稽古だったが、歳をとって滑らかに。
戦前は隙があれば飛びこんだが、相手を殺さずうつぶせにして抑える技へと変化。
晩年に向かうにつれて柔らかく舞のようになっていった。

晩年の技は老若男女誰でもできる。
戦前の厳しい剛技に対し、晩年は生かす方の技。
はじめはいかに速く殺すか、戦後は哲学的に。合気道は小戸の神技。

(阿部・奥村・磯山)

戦う前から勝っている

合気道は戦う前に勝つことを稽古する。構えを否定するようになり触れ合う前に勝負はすでに決まっているといった教えになった。

盛平の手を握った瞬間や正面打ちを打ち下ろす瞬間には勝敗が決していることがわかるような稽古であり、どちらが先に相手を切るか?が重要だった。「手を持たれるのではなく持たせる」勝てそうだと思って盛平の手を取っても掴んだ瞬間にはもう盛平が変化していた。

弟子たちは盛平に見られた瞬間にかかっていくように動かされており、反応が遅れるとしばらく受けに呼ばれない。そうした緊張感も利用していた。
清水健二はいつも軽率に動けば危険だということが先に感じられる稽古で、攻め手がなく動かされてしまっていたと語る。

(奥村・磯山・西尾・阿部・渡邊信之・清水)

怒られポイント

勝手に飛ぶような不自然な受け、触ったら倒れるような受け、ダメな受けには厳しく叱っていた。
また盛平が道場に入ったら稽古を中断して正座するのだが、これに気づかないと道場中が震撼するほど激怒した。
道場で足を投げ出す、道着をはだける、男性が女性を強く投げたり抑えたり、女性を大事に扱わない時などに雷が落ちていた。

正面打ちは当時、尺骨を打ち付け合うような稽古だったが痛がってすべらせていると指導者を叱っていた。稽古を受ける者が知らずに間違っている時には上の者を諫めた。
また技を試し合うような試合に対しては語調強く起こっていたという。
基本を重視しており、自分の真似をすることも叱っていた。

他には一、二、三と号令しながらの稽古はなく、一、二、三は体操だといって怒っていた。

(斎藤・有川・渡辺・佐々木貴・加藤・多田・清水・菅沼)

盛平の技についての感想

技は柔らかく、こちらが力を入れようとしても入れられない、包み込まれるような優しい感覚、技を安心して受けられる。気持ちが良い。
受身は取りやすく、投げられて怪我をするような不安はない。
怪力やふんばりではなく、自然に力が入っており、こちらが頑張っても頑張らなくても慌てず同じ力でやる。気を抜いているようで抜いてない。
武術や真剣であれば一瞬で一太刀で斬られてしまう状況だと自覚できるが、少しも感じさせない大きさがあり、暖かい。

技もガチガチッと極めるのではなく、流れるようにストーンと極める。入門した時期や受をとった人によって言い方が違っていて、畳に激しく叩きつけられたという人もいる。
必ずしも柔らかいだけではなく、その場その場で身体を自由に使い、技も吸い込まれるような時もあれば、ガチンと極められる時もあった。
固め技はグッと重しが乗ったようで動けず、指一本で背骨の何番目という感じで決まった場所をピタリと抑えられていた。

目線があった瞬間には投げられており、手を取ろうとしても掴めないまま吸い込まれるように投げられる。がっちり掴ませるというよりは流れだった。投げられるとボールが弾むように倒されるのではなく、潰れるように倒されていた。
考える間もなく、吸い寄せられて自然に投げられる。不思議な感覚。
相手の心を導いて体を動かしていた。
藤平は他の人の技は効かなかったが盛平にだけは投げられたという。

ノケは田村から盛平に逆らって抵抗すると殺されるぞと脅された。技をかける時には盛平の目がギラギラと光っていた等、目力について語る弟子も多い。

手刀を立てて半身に構え力を入れて押し込んでもびくともせず、強さが前面に出るという感じではないが、気力という面では腰を抜かすほど強かった。
瞬発力や洞察力は手を取ってみないとわからない。晩年はパッと手をかざす入身の技が多く技と気の哲学があることを思わせる。
どんな状況でも技が速く、晩年の年齢であれほど速く動ける人はそういない。

(磯山・田村・藤平・多田・渡邊信之・黒岩・小林・加藤・清水・菅沼)

戦後の「教えない」

個人稽古では普段よりも説明していたが、同じことをもう一回するのは嫌っており、形になることにも反対。技は二回やると盗まれるとも。
後から後から技が湧いてきて待っていられないようで、次々と進むので技の具体的な名前もなかった。
技を一度出したらおしまいだと考えており、やり方を聞いても、もう忘れてしまったと答えることもあった。
稽古が乗っているときは逆に話をせずに1週間の講習で1日7時間稽古していたことも。
技はとっさの時に考えなくても出るように忘れろとも説明した。

盛平は突然道場にやってきて稽古時間の半分以上に渡って神様の話をすることが多く、ほとんどの弟子達には理解不能だったが、中には合気道を理解させるための話だと解釈している弟子もいる。
その姿や雰囲気こそが最高の教えだったとも言えるし、中には教えて貰ったという弟子もいるが小林はそういった説明は聞いたことがないと語っている。

清水健二曰く、技の説明も「地球を持ち上げるような気持ちで」とか「地球を支えるような大きな気持ちを持て」といった大きな例えで、技は十年ごとに変わると言い、今の合気道が本物だと語っていたという。

(斉藤・有川・黒岩・小林保・佐々木貴・阿部・田村・多田・藤田・渡辺信之・西尾・加藤)

本部での稽古

本部での指導の中心は吉祥丸となり盛平は岩間中心で本部には時々顔を出す程度に。時々ふらりと現れて二、三手教えて立ち去ることがよくあった。

当初は極めて投げるより固め技が多く、抑え込んで固める稽古。
膝行法を親切に教えたりはせず、受身も板の間に投げ込んで覚えさせており、まだ柔術的だった。
縦の動きが多く、円く捌く動きもなく極めが強い。入身も大きく入りっていた。技に当身があり、前歯を折る者もいた。

吉祥丸が中心になって変わっていった。純粋な合気道で細やかな指導をし、色んな指導者の指導についても技の細部に関してはほとんど干渉せず、師範によって技が少しずつ違っていることを許容していた。

盛平が70代くらいの頃はまだ元気で激しく固い稽古だったが80代に近づくにつれて体力がなくなり技の動きも丸く柔軟になっていった。吉祥丸先生はそれに従って本部の技を変えていった。

盛平は数をやれば強くなるという昔ながらの教え方だが、それだと身体に覚えこませることはできるが時間がかかる。
固い稽古で内弟子などの少人数に徹底的に鍛えて優秀な人間を作るのなら良いが、普及目的だと怪我などの危険性があった。

吉祥丸は技の統一については考えておらず、体操のようにならないよう注意していたという。基本の技は習っていけば自然と統一され、自然の動きの中で一つになると考えていたと語っている。

(山田・斎藤・磯山・黒岩・田村・荒川・小林・吉祥丸)

武器について

木刀や杖を持つと、途端に目つきが鋭くなった。
毎回違ったことをやるので、それを斎藤守弘が整理しまとめて剣や杖の術理から体術への発展が判りやすくなった。
合気道は剣の理を体術にしたものであり、体術が合気道ではない。合気道の剣と杖を学べばそれがわかる。


岩間では武器技の稽古は早朝に行われ、木剣を持って来させて合気道の説明をしていた。無抵抗主義の体の捌き、剣の合わせなど。
剣法的な体術を目指し、杖も短剣も鉄扇術も同じだったので、剣でやり「みんな、ひとつや、みんな一緒や」と口癖のように言っていた。
斎藤守弘との一対一の剣の稽古によって組太刀、「一の太刀」が固まった。

磯山曰く、岩間でも当時はたまに剣の稽古をするくらいだったが受けると物凄く早く、木刀を振り上げた瞬間には喉元に切先が入り、振り下ろした瞬間には入身転換して今度は首筋に剣先が振り下ろされていた。早い時はそのまま転換して後頭部に剣先がくることもあり、圧力があったという。

合気の剣は他の武道の剣と発想が違い、横で見ていると緩慢に見えることがあるが、相対しているそう感じない。こちらが打ちかかった瞬間にはすでに斬られている。

盛平の鍛錬は上半身裸でお腹を冷やさないように腹掛けをつけ、太い鉄棒を振っていた。一回一回しっかり止めて、相手の臍まで切るつもりで臍と臍を結べと言っていた。柄頭が自分の臍、切先は相手の臍。

よく28方切りをした。四方を7回ずつ切る。つまり周囲の邪気を払い自分の邪心を切る。

鍛錬台稽古
岩太い丸太を切って打込み縛ってその上に束ねた枝を横にして乗せて鍛錬台をつくり、大きな気合いと共に木剣でフラフラになるまで叩く。1週間せずに壊れるほど叩いていた。
疲れ果てて気合いだけになってしまう人もいたほどで、朝の稽古はそれ以外何も教えられずに3、4年はフラフラになるまで打ち、動けなくなると終わり。きつい稽古だったため、最後は斉藤以外やらなかった。


盛平の杖捌きはあまりにも早く、ほとんどわからなかった。
杖で相手の突き打ちなどを想定してその理合いの型をぱぱっと見せてくれていた。

本部での剣
本部道場で武器技を教えなかった。
戦前などは経験者が多く握り方や構え方も教えていなかった。戦後は先輩や外部から習って勉強するようになった。
剣をやっていると怒られることがあったが、それは素振りもろくにできないのに組み太刀みたいなのをやっていたから。
手先ではなく相手と結んで体でかわして入るのが本当の入身なので、チャンバラのように打ち合う組太刀には怒っていた。

黒岩は剣術をしている時に「だれがそんなものを教えた」と怒られたが実は吉祥丸からだったので言い出せなかったという。
剣術はこれだけできればいいといって松竹梅の剣を教えられ、斎藤守弘との様々な剣の稽古が晩年に松竹梅の剣に集約したと語る。

小林は剣については盛平が機嫌のいい時に少しだけ教わった程度だという。
佐々木貴は木刀や杖を道場で振っているのを見つけられたときに「お前たちに得物を振るのは早い、もっと体を鍛えなさい」と言われたと語る。
山田は木剣を振っていたら剣がなくてもできるように合気道を創ったのだと怒られたという。盛平自身は稽古で剣を振るし、説明の時も剣を持ってやっており、弟子には「十年早い」と語っていた。

西尾は剣を振っていて怒られたことはなかったと語る。
剣杖を見せてくれることもあったが、あまりにもはやく、他の先生に聞いても要領を得なかったという。

清水健二は合気道の理合を説明する時に盛平が剣や杖を使っていたといい、合気剣、合気杖としての理合はよく教わっていたと語った。
菅沼も稽古の時は杖や剣の他に、扇子もよく使っていたと語っている。

盛平の杖は杖ではなく槍で、晩年は杖または杖の先が槍になったものを使っていた。
剣は右半身、槍は左半身、ふたつでひとつ。
合気道は剣も槍も身体の延長。持っていることを忘れて自分の手のようになるまで練習せよと言っていた。
剣を使うところを素手で試み、素手のところに剣を使ってみるなどして、それができるならその技は正しいとも。

本部以外での剣
阿部醒石には「間違うことがあるから一教は木刀でやれ」と語り、盛平の技が速いため、真剣から木刀に変えて稽古したが、木刀がひゅうひゅう鳴り、ひとつ間違ったら命がないような稽古だったという。

(小林・斎藤・磯山・有川・西尾・田村・阿部・黒岩・佐々木貴・清水・山田・菅沼)

演武について

武道は見せ物ではなく本物だから命に関わると、演武はあまり見せたがらず、他所で技をやると盗まれるので演武会では努めてみんながわからないような技をやっていた。
弟子がバタバタと倒れるのは行ったと同時に盛平の手が顔の前に入り、倒れて避けないと間に合わないからだったという。

小林は演武の方が制限時間があるから良く、普段の稽古は1時間ほどしゃべるので大変だったと語っている。あまり演武と稽古で変化があったとは思えなかったと語っている。

(斎藤・磯山・西尾・小林)

まとめ

戦後の合気道とは何なのか、弟子たちの発言をまとめてわかってきた特徴は2点だ。

まずはこれまでやってこなかった教え方の体系化

植芝盛平自身はほとんど教え方を変えていないが、独立した弟子達ですらやっているように多くの人に教えるために体系化された。

もう一つは盛平の衰えに伴って変化した技をも取り入れようとした所にあるのだろう。

とは言え、戦前の弟子達だって衰えていくのでその過程で似たような形にもなるだろうし、例え戦前のものでも戦後以降つづいているものは、どれも戦後的な変遷を遂げているのだと思う。

ある意味で植芝盛平の厳格な指導方法は組織が大きくなると難しいものになるからだ。

参考資料

どう出版【特集】合気道人生半世紀斉藤守弘合気会九段・斎藤守弘1946年入門)
どう出版:奥村繁信合気会本部道場師範
どう出版note西尾昭二合気会師範・西尾昭二1951年入門)
(恩師を訪ねて【第17回】阿部俊一Sep.23,1999)
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マツリの合気道はワシが育てたって言いたくない?