見出し画像

記憶と歴史の違い。

スーパー銭湯で、サウナに入り水風呂へ。
外は小雪が舞う氷点下でも、涼むにはちょうどいい。

海水浴場によくある白いイスに寝そべりながら、
空から舞い降りてくる雪を見上げると、不思議と
気分が癒され、リラックスできる。

そんな日はいつも決まってどうでも
良いことを考えてしまう。

今日も「記憶」と「歴史」の違いはなんだろうか?
時間軸で言えばどちらも「過去」の分類だが?
と、誰に頼まれた訳でもないのに、つい考えてしまった。


戦争体験を話す曾祖父との思い出

サウナのほてりも冷めはじた頃、気が付けば
曾祖父との思い出を思い返していた。

曾祖父は亡くなる数年前にアルツハイマー型認知症を
患い、手足の自由が効かず、最後は寝たきりだった。
それでも、出兵当時の話を聞くとまるで別人のように
昔の記憶をハッキリとした口調で話してくれた。

そんな思い出にふけていると、
今度は東日本大震災の発災当時の事を考えていた。

"当事者である"ということ

恐らく今年の3月11日も「節目」として各メディアは
「震災から●●年目…」といった報道をするだろう。

しかし、自分は数字ほどの月日が経とうとしている実感がない。そればかりか、何年目、何年目と数えることに違和感すら感じている。

それはきっと、自分にとって、東日本大震災は「記憶」であって「歴史」ではないからだろう。。

曾祖父は認知症になっても戦争の記憶が失われることなく鮮明に残っていた。

おそらく・・・
世間からみれば「戦後●十年」という"歴史の話"であっても、
体験をした当事者である曾祖父の中では、まぎれもなく体験を伴う"記憶の話"だった。

それだけに、歴史=過去のものというニュアンスへの拒否感。戸惑いが人一倍あったにちがいない。

そうでなければ、曾祖父の目に、あれほどの力強さが宿るはずかない。

記憶は、良くも悪くも、曖昧だ。
一方で歴史は書き換えられることはあったとしても、その頻度はごくごく稀で、ほとんど皆無だ。

もしかすると、記憶が歴史とされる事への抵抗感は、まだ曖昧さを抱え、自分なりの答えを求め彷徨っていいたいという内なる声の仕業なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?