見出し画像

土地は喜んでいるのか、いないのか。

僕にとっての、2023年の芸術の秋が終わった。怒涛だったが、偶然にも、最後の1週間で行われた6回のインスタレーション型セッションはすべて、山と神社に関する場だった。

それぞれの場が終わった瞬間、「土地が喜んでくれた」という感覚が湧いてきた。

1度目の、島根県隠岐郡海士町では、後鳥羽上皇が祀られている、隠岐神社の拝殿における夜の芸術体験だった。この地域に10年以上住んでいる方でも、夜のこの時間に隠岐神社を歩くのは初めてという方もいた。

最終日、なぜか集合場所に全員が集まらず、参道の途中で場を閉めることになった。そのとき、参道に綺麗な風が吹き抜けた。その風が身体を通り抜けた瞬間、なぜか「土地(神社)が喜んでいる」という感覚が湧いてきた。

そしてもう一つの、奈良県奥大和で開催されている mind trail という芸術祭での出来事。下市町という地域にある、地域信仰として集落で山自体を神様としても祀っておられる場所だった。

集落の方々にとって、信仰上も大切な場所に関わるのはとても緊張することだった。地域の方がどう感じるかも気になるし、山や神様なるものが何かを感じているとしたら、よそ者が、と思われていないか、とても気になってしまうのだ。

そんな中、イベントに参加くださった集落の方が最後の最後、山をキョロキョロ見ながら、「山が喜んでいる気がします」とお話しされた。他の集落の方々とも「そうそう、そうだよね」というやりとりがなされていた。その光景を見て、本当に、本当に、嬉しかった。

この「土地(山のような)が喜んでいるか」は、結局何を意味しているのか、正直よく分からない。ただ、今回の二つの場に限らず、この感覚は、暗黙知的に僕がとても大事にしていたい感覚だったことに気が付いた。

人や建物や自然など、さまざまな反応の総体として、「土地は喜んでいる」という身体感覚が存在する。この感覚は、僕にも集落の方にもあるように、実は多くの人にとって無意識的に共有されている感覚なのだろうと思う。

僕は土地が喜ばないことは基本的にしたくない。結果的に土地が喜んでいなかったら、どれだけその場の人が喜んでいるように見えても、僕にとっては失敗なのだ。土地は喜んでいるのか、喜んでいないのか。この直感的すぎる感覚を、今後は意識的にも明示的にも大切にしていきたい。

そう気づかせていただいた旅だった。

Photo: Takashi Fujimura


ここから先は

0字

芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?