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人生に風が吹いた。扉が開いた。そして、今世の役割について考えた。

最近、「新しい風」を感じた瞬間があった。物理的な風ではなく、人生に対しての風、というイメージだ。

過去にも、同じように風の存在を感じた瞬間があった。1度目は、隠してきた内的な感情や欲求が暴発し、号泣した時。暴風雨のようだった。感情の扉が開いたと思った。二度目は、表現なんかできないと思っていたのに、表現できるんだと感じたとき。また風を感じ、表現の扉が開いた気がした。三度目は、アーティストとして最初の展示が終わり、僕も創り出せる存在なんだと直感したとき。この時は本当に清々しい風で、創造の扉が開いたと思った。

それぞれの扉が開いた後、新しい風が吹き、人生の流れは一変した。そして僕は、この3つの扉で終わりだと思っていた。しかし、違ったらしい。

これまでの扉は、「内的な扉」だった。「内的な扉」は自身の内面に深く潜り、そこから外に向かう、内から外向きの扉だった。しかし、今回は、逆だった。自身の内側に世界から何かが飛び込んでくる、「世界の扉」とでも呼びたくなる、外から内への扉だった。

内から外への扉だけでなく、外から内への扉が開く。すると、より一層内的世界と外的世界の境界が曖昧になる。創っているのか、創らされているのか。やっているのか、やらされているのか。導いているのか、導かれているのか。

もう分からない。

そして、これらの扉が開き、風を感じながら、奈良県の春日大社の参道を歩いていた。そこで、ふと次の言葉が降りてきた。

「世界を、光で照らすこと。」

見えないもの、聞こえないもの、認知できないもの、それらを認知してしまう体験を届けること。アーティストとして取り組んでいるのはまさにこの領域だ。

同時に、創造の盲点を見出すこと。新しい可能性がもうないのではと苦しんでいる人たちに対し、未知の創造領域を発見し、彼らの創造性が一転し、爆発する瞬間を生み出すこと。

そして何より、人の心・精神に、光を灯すこと。見えていなかった内的な感情や感覚に出会い、人生の流れが変わること。その人が、本当は歩みたい道を歩む手助けをすること。

認知体験も、創造体験も、内的変容体験もすべて、人々が「ない」と思っている領域に対し、「光を照らす」行為をしていたことに気がついた。

そう、僕がやっていることはすべて、「世界を、光で照らすこと。」これに尽きるのかもしれない。そう考えると、作品が光に関するものなのは、必然だったのだろうか。

「世界を、光で照らすこと。」

これを、魂の赴くままに、死ぬ瞬間まで、いや、死んだ後も続けていきたい。そう、強く、深く願った。

photo by Takashi Fujimura.

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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