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パン屋の匂いは紙袋の匂いであれ。

一歩踏み入った瞬間、空気が変わった。それは空気というより世界が丸ごと変わったかのような、異国の地に迷い込んだような感覚だった。

目の前に広がるのは、一面のパンの海。様々な色や香りのパンたちが、行儀よく顔を並べて迎え入れてくれた。
胸いっぱいに息を吸う。鮮やかな懐かしさとともに、焼きたての匂い、パン屋の匂いが身体中に広がった。


大学時代をパン屋バイトに捧げたほど、私はパンという食べ物の虜だ。朝ごはんはパン派、お弁当代わりに持っていくお昼もパン、夜はさすがに白飯だけど、おやつにだってパンを食べる。我ながらかなり病的……。


中でも最近のブームは専ら、おいしいパン屋を探すこと。この春から全くの見知らぬ土地へ越してきたのは、むしろいい機会だった。待っていたのは新鮮な驚きと発見の喜びばかり。慣れない場所に暮らすというのも、案外悪くない。

幸運なことに、うちのすぐ近所にもパン屋がある。小さなお店だけれど、ハードなパンはできたてはもちろん、時間が経ってもサクサクと歯ごたえがよくてすごくおいしい。
実家のすぐそこにもパン屋があって、そこではいつもアンパンマンの顔の形をしたチョコパンを買ってもらっていた(あんパンじゃないんかい、と幾度となく突っ込んだものだけれど)。

パン屋は店によってラインナップが全く違う。ハードパンを取り揃えた店もあれば、子供たちが喜ぶかわいいパンでいっぱいの店、バターをふんだんに使った贅沢なパンの店、その色は様々だ。
私はそれぞれのパン屋の色が知りたくて、毎度新たな世界へ連れて行ってもらえる感覚が嬉しくて、パン屋開拓が一向にやめられない。


まちのパン屋は、大抵意識していないときに現れる。近くの地図を眺めているとき、散歩をしているとき、それはRPGの隠し要素にある秘密の部屋みたいに、不意に、しかし確かな存在感とともに姿を見せるのだ。

銀行に寄った帰りに何気なくGoogleマップを開くと、近くにパン屋の気配が漂う店を見つけた。しかもここから歩いて行ける距離だ。銀行の駐車場にはもう少しお世話になることにして、足取り軽くお店へと向かった。

扉を開けた瞬間、パンの世界に飲み込まれた私。ずらりと並ぶ豊富な種類のパンたちはどれもこれもおいしそうで、とても選べそうにない。できることなら「こっからここまで全部!!」がしたくなるほどだ。

それでもなんとか悩みに悩み、明日の2人分の朝ごはんを選び抜く。
お会計中にしめしめ、と思ったのは、ただおいしそうなパンを手に入れたからだけではない。そのお店の袋は、紙袋だったのだ。

パン屋の袋は紙袋であるとなおよい。もちろんビニール袋でも構わないのだけれど、紙袋が醸し出すパン屋らしさというか、パン屋風情みたいなものは紙袋にしか引き出せない。しかもどの雰囲気やコンセプトのパン屋にも、紙袋はぴたりと合うのだ。

袋を開けた瞬間ふわりと立ち上る、紙袋独特の匂いと焼きたてパンの新鮮な香ばしさ。このふたつの香りのマリアージュによって、パンのおいしさが5割増しにはなると思う。だから私の中では、紙袋の匂いすなわちパン屋の匂いなのだ。紙袋はパンのためにあり、パンは紙袋のためにある。異論は認める。


翌日の朝ごはんが早くも楽しみになった帰り道。このパンたちはどんな味がするのだろう、同居人の彼はどのパンを選ぶだろう、食べたらどんな反応をするだろう。赤子のように紙袋を抱きながら、湧き上がるわくわくが抑えられなくなった。

次来たときにはこれが食べたいな、ができるのは、いいパン屋の証だと思う。今度の休日にもまた来よう。次はフルーツの乗ったあのパンと、ウインナーの挟まったパンがいい。未来にたくさんの楽しみを用意して、私は車を発進させた。


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