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脳内ライブハウス

中学生から大学生にかけて、ずっと音楽ばかりを聴いている時期があった。
イヤホンとiPod classicが手放せなくて、通学の電車や家族に乗せられた車の中、教室の中でもずっと聴いていた。

「 NO MUSIC,NO LIFE 」を本気で信じて、大して傷ついてもいないくせに音楽に救われたような気持ちになって、自分勝手に「音楽はこの世界で何よりも素晴らしいもので、何よりも崇拝すべきものである」という偶像を作って、その信念に酔っ払ったようになっていた。

当時は特にバンドサウンドが好きだった。
ボーカル、ギター、ベース、ドラムだけのシンプルな編成から奏でられる音楽には魂が宿っていて、剥き出しにされた本気の感情だけで作られているものなのだと本気で信じていた。

テレビには出ないバンドに憧れていた。
まだ売れていないのでも、ポリシーがあって出ないのでもよかった。
ラジオで新しい音楽を聴いてお金がないから田舎のTSUTAYAで5枚1000円でアルバムをレンタルして、いろんなバンドの音楽を聴いていた。
テレビには乗せられない「ありのままのロックな魂」の存在を純粋に信じていた。

学校で嫌なことがあった時も、親に理不尽に叱られたように感じた時も、友だち関係がうまくいかないときも、駆け込む先は音楽だった。

イヤホンをしてBPMが支配する世界に閉じこもると、脳みその中が箱になる。
頭の中のライブハウス。
ボーカル、ギター、ベース、ドラム、全部頭の中にいるような気がした。
イヤホンで耳を塞ぎさえしたら、電車の中でも、歩いて帰る道でも、自分の部屋でも、どこでも私はトリップすることができた。

そこで私だけの生バンドが音楽を演奏してくれて、私に何をいうでもなく寄り添ってくれたような気がした。
私はそんな空間にただただ縋っているだけだった。


本当は私は誰かに比べたら自分は別になんにも傷ついていないこともわかっていた。
ただ、「音楽に助けられた経験」「音楽に傷を癒してもらった経験」を得たいだけだったのだと気づいていた。
ラジオや雑誌に「この曲を聴いて涙が出た」だとか「元気がない時にこのバンドのこの曲を聴いて背中を押された」とかいう体験談を見るたびにそんなエモーショナルなことがあるんだ、とうらやましくなった。

それが生き急いでいるだけだったんだということに気がついたのは30を過ぎてからだ。
あの時の私に足りないものは経験だった。
自分の世界に閉じこもって、あらゆる刺激を拒否して、それなのに一丁前に誰かに救われたい。
なんて傲慢だったのだろう。

あれから私は自分の無力さ、いかに自分が誰かに助けられて生きていたのかを思い知った。
私はひとりでは何もできない人間だった。
学校に通うことも、卒業することも、就職活動も仕事をすることも、私にはまったく当たり前ではないことだとわかった。

そうして自分の無力さを知ってから、なんでもないと思っていた応援ソングの重さを知った。
泣ける歌が本当に泣ける理由を知った。
嬉しい気持ちを歌った歌の幸せの感じ方がわかった。
世の中を生きているあらゆる気持ちを歌った曲が本当にそばにいて寄り添ってくれることを知った。

みな、こうして世の中を必死で生きてきた経験があって、音楽はいつもそのそばにいるだけだ。
高尚なものでも特別なものでもない。
何かを思い出させるのも音楽、何かを忘れさせてくれるのもまた音楽なのかもしれない。

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