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疎外されゆく本音

疎外感。自分も所属しているはずの集団の中で、自分がいない時に何かイベントが起こり、自分以外の人たちがその経験を共有している。思い出を共有している。その結果、その思い出の中に私は当然入れない。経験を共有できない。そのような事態が発生した時、そのことに対して、物凄い疎外感を感じてしまう。悲しくなる。また一つ、私はその集団からの距離が出来たかのように思えてしまう。

なぜ、それで疎外感を感じるのだろうか。なぜ、そこまでして「同じ経験」を共有することに固執するのだろうか。

もちろん、万人に対してそう思うわけでは無い。どうでもいい相手は、相手が何をして過ごそうが、何を共有していようが関係ないし、なんとも思わない。ある程度親しい友人に対しても、そうは思わない。特定の相手、特定のコミュニティーに対して、強くそう思ってしまう。その思考は、病的だ。その自覚はある。

私は常々、他者との「まじれなさ」がある。これは以前から薄々感じていたことではあるが、比較的最近、心底敬愛するお方から指摘されて、改めて自覚したことだ。いつも心のどこかで、誰からも疎外されているような感覚に陥ってしまう。私自身が他者を拒みまくってるせいかもしれないのに。

でも、そういうことを(おそらく)表には出さないで大体の日常を過ごすことはできている(はずだ)し、取り繕いは年の功もあって上手くなった。人並みに、表面的な人付き合いはできる。でも、内面は変わっていない。いつまでたっても、他者と「まじれない」のだ。

この、疎外感を強く感じるポイントというのも、何か私個人の特性を表しているのかもしれない。こういうことって、誰かコンサルみたいな人や占い師とかに、「あなたはこういう人です!だから、こうしましょう!」みたいに線路を敷いてもらったほうが、きっと楽なんだろう。でも、そういうものに頼っていては、また別の困難にぶつかった時に、なんの解決の糸口にもならない。

もがいて、自分でしんどいと思うことが見つかるだけ、ある意味まだマシなのかもしれない。その事柄の改善によって、なにかしらの伸び代になる可能性を秘めているから。

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