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息子が暴れて止められず、どこにも出口がなかった

わずか8年ほどしか経っていませんが、
当時は、たくさんの涙と涙も出ないほどの苦しみ
でも一番苦しかったのは彼自身で、それが身体の痛み以上にわかるから、母は何もできませんでした。

仕事に出ざるを得ない昼間に、娘にも危害がと気が気でなく、PJ責任者を代わってもらい、早く帰れる仕事に転職もしました。

今や、2児のパパプログラマーです。
戸建ての家まで買い、迷走もしていますが、
必死に家族を守ろうとしているようです。

都立高校を選んだ時も、滑り止め私立を受けてくれず、必ず合格できるレベルまで落とし

その後中退した理由は、親の経済力気にして、
進学しないと決めたことと
テープレコーダーのように、毎年同じ授業をただ繰り返す、少し進学率の低い都立高校にありがちな内容に失望したからだと、のちに聞きました。

数年前に大学生従兄弟の持つ教科書をめくりながら、
  社会にでたら勉強したいことが見えてきた。
  いつか自分の金で社会人大学行くよ
と呟いてました。

一番暴れて大変だった時、児相は警察を呼んでくれるか、本人と親御さんが納得すれば、保護できます、と繰り返しました。
何度か訪問もしてくれましたが、息子は応対せず、家でゲームとパソコンの日々。
とにかく、お母さんがいない間、危険だから娘さんを保護施設に入れましょう、と言われ
娘は、なぜあいつを追い出さないで私を追い出すのとギャン泣き。

遊びに来ていた娘のお友達がうるさい、と姿見の鏡を割り、その子が破片で少しケガをしたことも。お詫びし、慰謝しました。。娘のこころは限界でした。
たまたま隣の市で、保育園を経営する知人が
うちは学校行かなくなった子を預かったりしてるから、ずっといてもいいのよ、と数ヶ月預かってくれ

その間、私は息子と2人、好きなご飯をたくさん作り
話し、また暴れ、の向き合う毎日。出口のないトンネルというか、進むことも戻ることもできない、
穴ぐらでした。

些細なことから爆発し、私のケガで救急車を呼び。
彼も血が出ていたので、一緒に病院いこ、と。
しかし彼は目を合わせず、一言

  オレはいいよ

その日を最後に2年近く、息子とは会えなくなりました。
彼は児相の施設を経由し、東京都の青年寮へ入ったため、親は勝手にコンタクト取れないのです。
その2年、私は人との交流を最小限に。過去経験のない閉塞的な生活を送りました。

今、同じような境遇の方が居たら。
もし読んでくださったら。
その子の可能性を疑わず、美味しいご飯と笑顔をどうか。
もしかしたら、もうそんな流暢なフェーズではないのかもしれません。
必ずどこかに、一緒に考えてくれる人がいます。
出口のない孤独感で、動けない時期もあります。
その時はもうそれでも仕方ないのかもしれません。
ただひとつ、できることは、
未来を消してしまうのではなく、信じて待つこと

私もわずか8年でここまで家族にキセキが起こるとは
その時は想像が及びませんでした。
今や笑える話しが多くなり、私も誇れる大好きな仕事に就くことができています。
息子と会えなかった2年の終わり方は、ドラマのようでした。またいつか、書きたいと思います。

★写真は1人目の孫と息子、2年前くらいの嫁撮影です


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