記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』に触れての長い話

まさかここまでの人気になるとは……!
11月中旬、映画館にとある洋画を観に行った時の事。グッズ販売のパンフレットリストに「売り切れ」の貼り出された作品があった。
てっきりゴジラかジブリかなと思ったのだが、見てびっくり、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』だ。鬼太郎や目玉おやじのぬいぐるみがあった棚を見てみれば、グッズも全く並んでいない(追記:2023年12月29日時点で再販分が並び始めたのを確認)。
私はその前の週、公開3日後くらいの11月20日頃この作品を観ており、その時はパンフレットも買えたし、ぬいぐるみ等のグッズもまだ売られていた。
それが大手シネコンの在庫量でも一週間で無くなるとは。
熱狂的ファンやいわゆるオタク層の多い『名探偵コナン』や、女性向けゲーム・アニメ系の作品以外ではそうそうこんな事態には遭遇しない。
そうこうしていると、映画アプリやXでも女性ユーザーらの間での盛り上がりを見かけるように。今まで「妖怪」とか「鬼太郎」などの投稿を一切していなかったアカウントがファンアートを再投稿(リツイート)していたりと、目をこらして初めて『鬼太郎誕生』が盛り上がっていたと遅れて知った形になった。

何を隠そう私も『鬼太郎誕生』は今年の邦画でベストと言えるくらい刺さった作品だ。
今回は、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の感想を、妖怪好き・民俗学かじってる・水木しげるファンとして個人的な思いを含めてまとめてみた。

(フィルマークス投稿文に加筆修正。いわゆる“キャラ萌え”とかの熱い感想ではないので、妖怪や民俗学には興味ないよって人には退屈かもしれないのでご注意下さい)
本編の内容・キャラクター、また他の水木しげる作品の内容にも言及します。ネタバレ注意!


□不安を杞憂に終わらせたキャラクターデザインの力

正直、製作が報じられた段階では、昨今の“アニメ絵”で、鬼太郎の誕生(墓から這い出てくる鬼太郎とドロドロの父親、売血する両親)を作られる事に不安があった。
これにはアニメ6期を含めて書かないと整然と伝えられない。

世代的に、私はアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』3期と4期の間にあたる。3期の“正義の味方の友好的・優等生鬼太郎”をおそらく再放送で観ていたが、水木しげるファンだった父の持っていた漫画版の鬼太郎を見てイメージの違いに驚いた記憶がある。
漫画の鬼太郎は優等生ではないのだ。ねずみ男とともにろくでもないことをしてみたり、言葉も荒かったり、気に入らない人間を平気でオバケの世界に送ったりする。
なので、映像作品では3期と4期両方に触れる中で自然と、妖怪然と振る舞う4期鬼太郎の方が好きになった。
(天童姉弟との友好関係や、ねずみ男だけでなく鬼太郎、ねこ娘、地獄童子なども人間との混血設定にしつつ「人間と妖怪が愛し合うことは悪」という摂理が描かれていた3期は子供ながらに消化しきれなかったのもある)

4期では父のレコードでしか聞いたことのなかった「カランコロンの歌(歌:サザエさん)」の憂歌団バージョンが放送されたのもでかい。
「カランコロンの歌」いいんですよね。人知れず感みたいな淡々とした感じが(後述するが、今回の映画でもラストにナイスアレンジで流れて本当に嬉しかった)。
実写鬼太郎(演:ウエンツ瑛士さん)の髪が原作準拠の灰色だっただけでも意外性に色めきたったりなどしてきたが、そこから一転、5期は個人的に何もかもが受けつけられずショックを受けたのを覚えている。
オタク狙いにねこ娘の萌えキャラ化、腐女子狙いに青坊主という妖怪を美形化して鬼太郎に慕わせる設定、無機質なのが魅力的だったぬりかべの妻帯&子沢山、妖怪横丁とかいう謎スポット……
“人間との間に線引きした、妖怪的価値観の鬼太郎”
を描いているのに、絵柄に親しみやすさを狙った可愛らしさ(悪く言えば媚び)があり、妖怪と人間の質感に差がない
のが本当にダメだった。

時代にあわせて「鬼太郎」が姿を変えていくのは水木氏の方針と遠くない事なので、ああもうこれからの鬼太郎はノットフォーミーだな……と思って(おとなしく『墓場鬼太郎』をリピートして)いたのだが、そこに現れた6期に衝撃を受けた。

6期の鬼太郎のアニメオープニングテーマでは、
「土から出てくる赤ん坊の腕」
「包帯巻きの異形からこぼれ落ちる目玉」
が大々的に描かれている!!

鬼太郎の誕生秘話に触れたアニメはあったが、6期では上記演出にくわえ、第一話で
「鬼太郎は幼い頃、水木という人間に育てられた」
とはっきりと語られ描写される。

これはかなり驚きだった。
水木しげる氏のプロトタイプ鬼太郎ともいえる漫画『墓場鬼太郎』と、ヒーロー妖怪アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』が一つの形で正統にリンクした
これが本当に嬉しかった。

「鬼太郎」周りは近年、
アニメは妖怪らしさよりも、原作離れした最新のアニメ的雰囲気と可愛い作画でやるよ!古参の為に原作絵のグッズは展開していくし『墓場鬼太郎』もやるので、オールドファンはこれを楽しんでね!
的に展開されている気配があり、公式サイドから直々に住み分けの提案をされるような空気を感じていた。
なので、ねこ娘の萌えキャラ化で盛り上がっている人々と、『墓場鬼太郎』のアニメ化で盛り上がっている人々とでは、同じ鬼太郎ファンなのに別々のジャンルにいるような不思議な感じがしていたのだ。
(これは私がアニメや漫画のファンカルチャーに疎いからそう感じるだけかもしれない。
しかし鬼太郎の場合は「原作絵派」「アニメ絵派」が分かれたとき、絵柄だけでなく好きな鬼太郎の性格もそれぞれで違うから独特といえば独特な気はする)
個人的に6期には、『墓場鬼太郎』と地続きになった喜び以外にも、(東映側で議論の末大人びた外見となった)ねこ娘含め意外なくらい違和感がなかった。
鬼太郎→子供
ねずみ男→若者
目玉おやじ→おっさん
子泣き爺・砂かけ婆→老人
という妖怪なので、鬼太郎とねずみ男の間の、人間でいうハイティーン世代の妖怪がいる、という意味でも6期のねこ娘は良かったとストンと思えている。不思議と。
6期は私にとって、現行アニメーションの「鬼太郎」に、オールドファンの愛着や原作愛が追いつき、新規層やキャラ萌え層と同じ足場で皆で楽しむ事が出来たような特別な作品になったのだ。

で、ここからが『鬼太郎誕生』の映像化が不安だった話なんだけど。
6期「鬼太郎」に、鬼太郎の父親が(目玉になる前の姿で)登場するエピソードがある。
「まくら返しと幻の夢」だ。

東映公式「ゲゲゲの鬼太郎」サイト 各話あらすじページより引用

当時ツイッターでも大いに話題になっていた記憶がある。
映画の製作が報じられた時、正直な話、私は
「鬼太郎の父親を6期のデザインでやるなら、鬼太郎誕生ちょっとイマイチかもな」
と思っていた。

公開前、最初期に出た『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』イメージビジュアルより。目玉形態の目玉おやじ同様、そして6期の人間形態の目玉おやじ同様に目の虹彩が赤く描かれていた為、この段階では6期のデザインがそのまま使われるのも予測していた


水木しげる氏の妖怪画を見たことがあるだろうか。
点描で緻密に描かれた風景、恐れおののく人間は劇画のようにリアルで、そんな写実的な空間に、漫画としか思えない異様な質感の妖怪が佇んでいる。逆に、妖怪がリアル・人間は漫画的なものもあるが、いずれにせよ
水木しげる氏の妖怪の質感は、風景や人間とは一目見て異なる「異様さ」を持っている。
私はこれがとても好きだ。
5期鬼太郎の絵柄や表情のアニメっぽさが受け入れられなかったのもここにある。
(全員ベタ塗り・表情を動かして見せる、というアニメーションで「人間と妖怪の質感の差」を出すのは難しいだろ、と思うかも知れないが、アニメ『墓場~』の水木や寝子は明らかに妖怪達とは表情や顔立ちの質感が異なっている)
風景の中にいて「何だか奇妙な雰囲気」を持つ妖怪の佇まいが、アニメ鬼太郎6期の“鬼太郎の父親”には無かった。
あの涼しいイケメンキャラの目玉が飛び出て目玉おやじになるとは思えない。頭身の高さや顔立ちの美形感等といったデザインの質感が人間キャラっぽすぎる。
(6期ねこ娘もこれに近い人間っぽさだが、6期のねこ娘は猫の性質に豹変した姿が全アニメシリーズで最も妖怪めいているので“普段は人間に擬態している(から普段の姿は妖怪よりも人間側の質感でいい)”感がして自然と受けとれる)

だが、今回の映画『鬼太郎誕生』の予告編で“鬼太郎の父親”の劇中キャラクターデザインを見た時、嬉しくなるほど安堵し期待が高まった。
目が妖怪の目だ。
人間の「水木」と比べて、明らかに目の質感が違っている。一目見て“人間っぽくなさ”がある。
映画を観終わり、パンフレットを読んでいて、キャラクターデザイナー谷田部さんのインタビューを見て更に嬉しかった。鬼太郎の父親のデザインに関して
“水木しげるキャラクターの「目」”
について言及なさっていたから。
それでいて、私のようなうるせえオールドファンだけでなく、かつて萌えキャラ化したねこ娘がつかんだように、いわゆる「新規オタク」層の心をがっちりつかんでいるようなので、この作品のキャラクターデザインの温故知新の凄さを感じている。

□子供の頃「鬼太郎」を応援した人から、何となくしか「鬼太郎」を知らない人まで楽しめるエンタメ性(ただし大人向け)!

鬼太郎というキャラクターは何となく知っているというだけの人から、アニメ『鬼太郎』が好きな人、原作『鬼太郎』と彼のオリジンを網羅している人まで、あらゆる層の観客に対する完全な鬼太郎エンターテインメント。
そして何より、水木しげる氏が遺した「鬼太郎」ワールドと妖怪モノのエッセンスが凝縮された心地よさに溢れる。
そうありつつも
「悪い妖怪め!許さないぞ!」
なヒーローアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』テイストではなく、どこか浮世離れしているのにどこまでも俗世的な水木氏らしい『墓場鬼太郎』の群像劇よりも更にシビアな群像劇が、本作の現代的描き方のホラーアニメ『鬼太郎』としてのオリジナリティだと感じる。

繰り返すが特筆すべきは、「水木」という男が生きた鬼太郎のプロトタイプ的な漫画『墓場鬼太郎』の幾つかの要素と(アニメ)『ゲゲゲの鬼太郎』(6期)を公式に地続きのものとする、という作り方の妙。
『墓場鬼太郎』の登場人物「水木」には、水木しげる氏を重ねた設定が加えられたのも、水木しげる氏生誕100周年記念作品としてやはり印象深い。
有名な南方での戦争体験だけでなく、
「妖怪の事を、子守りの婆さんから教わった」
という箇所に思わず心の妖怪アンテナが反応した人も多いはず。これは確実に、水木しげる氏が幼少期に妖怪の話を聞かせてもらい、多大な影響を受けたという拝み屋(霊感があったり、念仏ができたりなどで地域のスピリチュアルカウンセラー的な役割の人)の奥さんでありお手伝いさん・通称「のんのんばあ」のオマージュだ。

講談社電子版『のんのんばあとオレ』書影。左のおばあさんが「のんのんばあ」。子供時代の水木氏(右)を「しげーさん」と呼び様々な不思議な話を聞かせてくれた。ドラマ化し、そこから登場妖怪がみんなのうた化もした作品。

ちなみに、水木しげる氏が重なるキャラクターは、水木だけではない。
ゲゲ、は水木氏の幼い頃のニックネームなのだ(水木氏がベビィ=幼児の頃“しげる”と上手く言えなかった事に由来。氏の少年期を描いた漫画でも、友達らから「ゲゲ」と呼ばれている)。
ねずみ少年のリアクションから鬼太郎の父につけられた仮の呼び名、あのやや不自然とも思える流れには、“鬼太郎の生みの親”水木しげる氏を、目玉おやじに重ねるリスペクトやファンへの目配せがあったのだと私は思っている。

(でもこれ、純粋に作品内の流れだけを観ていたり、ゲゲ=水木しげる氏、って知らない人が見たらそれはそれで、
「目玉おやじは水木がつけたあだ名から“郎”をとって息子の鬼太郎に名づけた」
っていう感じになる
から、鬼太郎の父が水木を「相棒」や「友」と呼んだ感情の大きさのあらわれになるよね。
ブロマンスファン的なみんなの盛り上がりってこういう箇所ということか!)

世界観としては、ドロドロのお家騒動と怪奇事件の舞台となる村と村人達は、横溝正史作品に通ずるような昭和のダークサイド、閉鎖的で因習に支配された醜悪な未開性を醸し出す。
そんな人間達の禍々しい関係性を筆頭に、PG12にすることで可能になったと思われる描写が力強く物語を血塗れにしていく。
アニメーションだからこそ!と言える劇的なゴア、性的なタブーの他、子供への配慮もなく当たり前にそこかしこで行われる喫煙(当時の喫煙率は今のスマホ普及率くらいらしいのであのくらいでも自然)。
全年齢対象のために喫煙はまだしも、戦後を描いてるのに兵隊に坊主頭少なすぎないか!?と首を傾げた『ゴジラ-1.0』よりリアリティを持って描けている昭和感(私が周囲から聞く限り昭和初期=人情、よりも、清潔感なく都会でも閉鎖的で女子供は悪気なく軽んじられる、という感じなので、性善説人情のゴジラの人々よりこちらの方が現実味を感じた)


□モチーフとなった妖怪の話

鬼太郎の世界観が大好きでも、民俗学畑にいれば意識せざるをえないのが水木しげる作品の功罪である。
たとえば“塗り壁”は本来「めまい」や「立ちくらみ」のように現象を指すものだったが、水木しげる作品以降「壁の妖怪である」とする認識や書籍が流布している
(妖怪画のものは現象のぬりかべと関係があるか不明だが、象とか犬みたいなフォルムであり壁の姿ではない)
異国の美術品を日本妖怪のデザインモチーフに流用した絵が「妖怪図鑑」になったことで、海外の美術品を「日本妖怪はこの姿なんだ!」と思ってしまっている人も多い
(姿形が全く伝わっていない妖怪を想像で絵にした人に対して「その妖怪はそんな色じゃない」みたいに、美術品流用の水木デザインを持ち出して根拠にし“こういう姿の妖怪だ”と的外れな指摘をする妖怪ファンまでいる)

氏が行った既存の伝説への脚色にせよ、創作にせよそれらの文化的影響は大きく、民俗学的には、明確に「水木しげる以前」と「水木しげる以降」の妖怪民俗にはっきりとした境界があるといっていい。
そんな水木氏の功罪も意識させる、伝説的存在ではなく脚色的(創作文化の中で生まれた創作的)妖怪のチョイスは偶然か(笑)。
「狂骨」は、ただ江戸時代に絵師・鳥山石燕(とりやませきえん)により絵に描かれただけの存在(オリキャラの可能性大)であり、狂骨といった妖怪の伝説は現在分かっている中では一切存在しない。
妖怪画には、伝説のあるもの、言葉遊びや人間の風刺をキャラ化したもの、妖怪画のテンプレクリーチャー等様々な出自のものが登場しているが、狂骨は
「井戸の中にいる骸骨。すさまじいことを“きょうこつな”と言うのはこいつが元ネタだよ、そのくらい怨みがすさまじいんだ!」
という(オリジナルイラストにオリジナル設定の?)キャプションのついた、伝承なき絵だけの妖怪だ。
(だからこそボス格の妖怪としてストーリーに合った自由な肉付けがなされ、映画的に「映える」脚色ができたともいえるので、ナイスチョイス。
伝説のない妖怪なのでいくら脚色されても違和感が生まれずノイズにならないのは妖怪好きとしてとても観やすかった。たとえば近年の狼男を扱った作品や伝承生物図鑑等で「伝説では銀が弱点」とか書かれていると、それは固有の映画の狼男の設定であり伝承されている性質ではないだろ、とかがかなりノイズになるし、下調べのなさとか、文化に招く混乱とかにイラつきさえするもの)

尚、この鳥山石燕の得意とした妖怪画のスタイルは、今でいうと植物のオリジナルオバケを描き
「人は笑える事があると“草生える”というので、人が笑った数だけこんな植物の姿のオバケが生まれてたら……と想像してみたよ」
みたいなもの
が多い。

ここらへんは長くなるので、狂骨という妖怪やアフター水木氏の妖怪民俗が気になる人はぜひぜひ調べてみてね。
ちなみに昭和の児童書で創作されそれが水木氏の漫画で浸透し、他の媒体でも当たり前に見られる「がしゃどくろ」という妖怪も伝説は全く存在していません。水木氏の影響力すごい。

※有識者の方々がまとめ、出自を明らかにしている「水木しげる氏のデザイン引用元」。
サムネイルの根付は水木しげる氏の妖怪画すねこすり」の元ネタにされた美術品。
すねこすりは“この姿形として伝わっているわけではない”。

□気になったところもあり……しかし映画として「鬼太郎オリジン」として最高の作品!


鳥居と曼荼羅の組み合わせとかはまあ、どうとでも解釈できるとして、時弥少年に関する台詞内容と描き方の相違が気になった。
「地獄にいる」と語られつつ、狂骨になって最後まで現世にとどまってる描写に矛盾を感じざるを得なかったのだけど、ここ何か詳細な説明がなされてたのを私が見落としているのか?
「鬼太郎」の世界観で“地獄に人(やその魂)が送られる”というのはめちゃくちゃおお事というか、二度と戻れない、かなり絶対的な「オシマイ」の象徴だ。
(「地獄流し」とかのエピソードに顕著)
故に、時弥は代わりに地獄で苦しんでいるという台詞のもたらす絶望感や仕打ちの残酷さを浴びせかけられた。
……んだけど、結局地獄じゃなく、恨みを抱いた霊である狂骨になってしまっていた、ということで良いのか?
(この辺もし見逃してるとこあったら、分かる人教えて下さい)
この戸惑いが生まれ、盛り上がりシーンに感情的に入り込めなかったのは若干残念。

あとは、これだけ劇的にカタルシスを以て描かれたラストから、『墓場鬼太郎』での水木と鬼太郎につながるとは思いたくない・あまりにも無情すぎて無理があるのでは?とはどうしても思ってしまう。
『墓場~』の水木と鬼太郎の別れや、「俺はお前の父親だぞ」と水木に言われたときの鬼太郎の反応とかが、私は元々嫌いではないどころか、かなり好きなので。

弱者の血ーー幽霊族の血や己の血統にある女・子供もまたーーを使いこの世に君臨しようとする時貞翁に対し、自らも「血を売る弱者の上に成り立つ血液銀行という仕事(今で言う貧困ビジネスの側面もある)」でなりふり構わず上を目指していた、近いものを持っていた水木が否定する、という、水木自身へのケジメを示したシーンはきれいだったし、鬼太郎そっくりだった父親の皮膚がボロボロになり、鬼太郎が生まれる頃には原型をとどめていなかった理由も納得のいく整合性で思わず「そうきたか」となった。
「カランコロンの歌」にのせて原作漫画調になった白黒の絵で『墓場鬼太郎』につながるラストは、水木しげる作品ファンとしては本編以上に本編と呼びたい短くも濃密な時間だった。

ここで先程も触れた「カランコロンの歌」だが、本作のバージョンは原曲から大幅にメロディがカットされている
この歌は本来、
“カランコロン”という下駄の音のパート

妖怪と戦う鬼太郎のパート
に分かれているのだが、本作のエンディングで流れたバージョンでは、下駄の音パートのみメロディが健在で、鬼太郎について歌われる部分のメロディが無い。

雰囲気に合わせた都合のいいアレンジ、と言ってしまえばそれだけなのかも知れないが、ここも感じ方によっては、鬼太郎が父から受け継いだリモコン下駄(=下駄は父親のもの)であるので、この映画は鬼太郎の父の足跡であり鬼太郎に引き継がれた話だよ、という印象も受ける。

その下駄の音を歌ったメロディに、後年の鬼太郎の戦いや冒険を歌ったメロディが重なって初めて我々の知る“鬼太郎の”「カランコロンの歌」となる逆転の構図も、勝手な後付け・ファンの妄想ながらどうしても感慨深かった。

先に紹介した『のんのんばあとオレ』の中で、ある人の死を受けて落ち込んだ水木しげる少年に対して、のんのんばあがかけてくれる言葉がある。

心が重いのは、死んだ人の魂が宿ったからだ」
(魂は極楽にいくんじゃないのか、というしげる少年に対し)
大部分はそうだが、少しずつは縁ある人のもとに残る。
体はものを食べて成長するが、心は色々な魂が宿って成長していくものだ。今まで石や虫などたくさんのものに触れたから色々なものの魂が宿り君はここまで大きく成長した」
(以上要約)

『のんのんばあとオレ』より

この言葉に更に続く「のんのんばあ」の教えてくれたことをぜひとも読んで欲しいのだが、
“死者の魂が少しずつ生者のもとに宿り、生きていくものを成長させていく”
というのんのんばあの、そして水木氏のこの考え方こそが、「鬼太郎」世界の幽霊族が死ぬ時に残す一本の髪の毛、そしてその末裔が持つ“霊毛ちゃんちゃんこ”の礎ではないかと私は思っているのだ。
これは映画でもじゅうぶんに汲み取られていたと思えた。
あの時鬼太郎の胎動を感じ、新たな命の目覚めに呼応し、希望を託すかのように、死にかけの幽霊族達が最期に残した霊毛は、彼らの「魂の一部」だ。
そしてそれらの重みを宿した鬼太郎の父は己の使命を選び、更にちゃんちゃんこは鬼太郎へと受け継がれていく。

一族の霊毛で編まれたちゃんちゃんこに守られ、目玉のオバケを“父”と呼ぶ、下駄を鳴らして闇を行く人ならざる少年。
これは、怨念が跋扈し、屍の積み重なった人と妖怪の業の物語から生まれ落ちた彼のオリジンであり、彼の“父”の物語。
鬼太郎の生みの親の生誕100周年の折にもたらされた作品としては、嬉しくなる要素が詰め込まれ、作り手の水木作品への愛を感じられる最高の映画だった。
キャラクターを死なせる事でファンが傷つく(キャラクターを殺しにくい)という昨今のオタク層の感受性と、救いのないシビアな本編への救済措置的に用意されたであろう入場特典や、パンフレットで谷田部さんが描いている「目玉おやじが目玉にならなかったif」のカットで、観終えてからも作品やキャラクターへの愛着がフォローされる演出も現代的で心憎い。

入場者特典貰って帰ったんだけど、友達と一緒に開封してびっくり。これ複数種類あるのかよ!!?

□20231208再鑑賞の加筆と入場者特典リニューアル

やや間が空いて、友人の付き添いで再鑑賞。
一連のストーリー知ってから観てみると、細部にそれとわかる描写があってウッとなる見事さがあった。
水木の上司が「今度は無事に帰ってくるといいが」(村に行った外部の人間は帰ってきていない=上司はそれを知ってて水木を向かわせた)

・喪の“おこもり”の夜、長男・時麿がこもりに向かう時に「何をしてるの」と水木と会話している沙代を叱る母親(普通に見てると立ち働きを促している・沙代にもさっさとおこもりに入るよう急かしているように見えるが、つまりは「早く新しい当主の時麿の部屋についていけ」って事かも知れない)

・怖い日本人形の描写が何だったのか(水木が村に向かう列車の乗客の中に咳をしている女の子がおり、その子が人形を持っている。地下で血液を採取される屍人の中にも咳をしている者がいるのでそれがあの女の子だとすると、つまりあの列車の乗客は外部から血液牧場の屍人要因として村に呼ばれた・ないし村に来たら屍人にされてしまった人々)

とか、初回観たときは「?」だったり何とも思わなかった所がめちゃくちゃ怖かった……
あとは、『墓場~』と違い鬼太郎の両親は多分売血をしておらず、水木が何となく二人の家に導かれたっぽい(か『墓場~』同様水木の生活圏内に引っ越して来たか)→一度逃げるがカラスがその方向に群がっている事に気づいてもう一度訪れる、というエンディングイラストの間とかも凄く良い。

あとは、別に展開には無関係なんだけど、龍賀家の女性達が「乙米」「丙江」「庚子」で、名前に乙(きのと)・「丙(ひのえ)」・「庚(かのえ)」が含まれてるので
乙米と丙江は多分年子(年齢一つ違いまたは13下)
庚子は丙江より四つ下
なのでは?とか。
昭和31年から暦を逆算してみないと分からないけど、暦由来でなくても呪術的な何らかの意味で名づけられててもおかしくないかなと。
(この字は十干という五行陰陽の属性で、“甲子(きのえね=木の陽の子年)”みたいに十二支と合わせて毎年順番に暦につけていくもの。甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の順番に巡る)

私は普段アニメ観ないのと、アニメーション喋りみたいな声優さんの発声や発音がかなり苦手(アンチアニメってわけではなく、歌舞伎を観ない人が隈取りや歌舞伎の喋り方に馴染めないのと同じような感じ)なので声の演技の云々はよく分からないのだけど、鬼太郎の父を演じられた声優さんの喋り方が、声のトーンを変えたらそっくりそのまま「皆がイメージする目玉おやじの喋り方」になるだろう事、に気がついた。声優さんのお芝居の凄さを感じられた。

前回と違い、リピーターや口コミを聞いての客層が多めだったのか、後ろの席からは
「分かってても認めたくない」「また泣いた」
という女性の会話が。
金曜夜の上映時間だがサラリーマン風の男性は見当たらず、シアター満席・ほとんどが女性だったのも公開直後とはかなり違っていてびっくり。
入場者特典のお渡しです、と言われたのだけど、前回のからリニューアルしててそれも嬉しい驚きだった。
パンフレットの受注販売も決まったとの事で、たくさんのリピーター、ファンが満足できる展開になってきている感じがする。
子供達を巻き込むブームではないので、アニメ7期製作等への動きにはつながりにくいかもしれないが、『鬼太郎誕生』ますますのヒットや広がりを願わずにはいられない!

映画を観て、鬼太郎の父=目玉おやじ を好きになった人は、いつのアニメでもいいので好みのシリーズの『逆モチ殺し(火車)』を観て下さい。オススメ!


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?