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私が小説家になれないのには、101の理由があってだな 

ブックサイト「好書好日」の連載「小説家になりたい人がなった人に聞いてみた。」の、「小説家になりたい人」こと、清 繭子。地方文学賞の〈審査員特別賞〉を10年も前に貰ったきりの私が、無謀にも会社を辞め、小説家になろうとする、もう自分で自分を笑うしかない(自笑)な奮闘の日々。


会社を辞め、「好書好日」のライターとして、たくさんの「小説家になった人」に会える立場になった。
取材を重ねるうちに、「小説家になった人」には、いくつかの共通点があることに気づいた。そして、その共通点こそが「小説家になれた理由」なのでは……?と考えるようになった。(浅はか…)

そして……、

清はその共通点にことごとく、当てはまらないのであった……。

小説家の共通点① 人見知りである


小説家にぱーてーぴーぽーはいない。心を開いたとしても半開き程度である。そりゃ、初対面のあーたに対してだからでしょ、と思うかもしれない。でも、傍らにいる担当編集者に対しても、だいたい同じような距離感で接している(ように見える)。

しかし、彼らはじっと観察している。おべんちゃらも、連絡先交換もしない代わりに、少し離れたところから人を見て知ろうとしているのである。
人見知りの語源の一説に、人見(よその人を見る目)+知る(気づく、感じ取る)がある。小説家はまさに、人見知りである。

一方、清はといえば、よく「ちょ、距離が近いって」と言われる。
高校の頃、学校を休んで言葉の通じない異国で暮らし、一人も友達ができなかった経験から、同じ言語を使う相手には、やたらと人懐っこくなってしまった。「言葉が通じる=友達にならないと」と本能が叫ぶのだ。

ちなみに、この作家人見知り説。例外は今のところ、今村翔吾さんだけです。

小説家の共通点② 読書家である


当たり前すぎるけど、読書家でない作家に会ったことがない。「私、全然読まないですよ~」という作家さんでも、それはほかの作家と比べてであって、全然、ぜんっぜんっ、読んでいるのである。

インタビューの中ですらすら書名が出てくる。そして、それらの本のほとんどを私は読んだことがない。知らない作家名もポンポン出てくる。その場では「ああ、あれですね」という顔をしながら、あとでこっそり図書館で探す。

最新の海外作家もの、隠れた日本の名作……、取材するたび自分の学のなさを思い知らされる。

そもそも、作家になる以前の積み重ねが違う。「小学生からそんな難しそうな本を⁉」と驚くことが多々ある。いま、具体例が出せないのは、未読の本ばかりで書名を思い出せないのだ……。つくづく情けない。

てか、そんなんで小説家目指してんの? と自分でも思う。

小説家の共通点③ 小説家以外、向いてない


これには、なう会社員の一穂ミチさん結城真一郎さん、以前サントリーの社員をされていた朝井リョウさんもいらっしゃるので、あくまで傾向としての話だけど、
小説家の人はよく「書くことしかできなかったので…」と言う。

しかもそれを、結構暗めの顔でつぶやいたりする。謙遜でもなんでもなく、本当にほかのことは上手にできなかったんだろうな、と作家になる以前の苦労が偲ばれる。

一方、清は置かれた場所で咲けるタイプだ。器用貧乏なタイプだ。SPEEDでいえば、ダンスが一番の仁絵ちゃんでも、歌が一番の寛子ちゃんでも、容姿が一番の多香子ちゃんでもなく、オール4の絵理子ちゃんタイプである。

何より17年も同じ会社にいて、とても快適に社会人生活を送っていたのだ。
凡人だなあ…といやになる。

小説家の共通点④ 小説にメッセージを込めていない


インタビュアーになって、一番の衝撃がこれだった。
「この作品で届けたいことは?」というお決まりの質問をすると、純文学畑の多くの人が「小説で何かを訴えようとか、メッセージを込めることはない」と話すのだ。

私は自分の小説で誰かを啓蒙したり、メッセージを発信したいとは思わないんです。ただ、読者にも自分自身にも、まだ見たことがない光景を見せたいと思っているんです。こういう状況があるんだ、こういう人がいるんだ、こういう感情の動きかたがあるんだ、とか。そういうことを知るために小説ってあるんじゃないかと思うんです。

井上荒野さん/好書好日より

小説で何か思いを表明する、ということを私はしません

角田光代さん/好書好日より

自分が書いている、というよりは、見たものを書き留めている、という感覚なんです。小説を書くときはまず、頭の中の水槽に、人や設定を入れて、その人と摩擦しそうな人も入れてみるんです。すると自動的にそれらが動き出し、私は、ただそれを誠実に書きとめます。

村田沙耶香さん/好書好日より

小説家の人々は、自分の中のテーマを深く掘り下げたり、精密な物語を作ることに目的があって、「誰かに読ませて感動させる」とか「自分の意見を伝える」とか考えていないのだ。ある意味、あまり読者を意識していない。自分の内側で書いている。

一方、清は小説で人を救いたい、と思ってきた。明確なメッセージがあって、それを押しつけがましくなく伝える手段として、小説の形を借りた。いわば小説は演出法の一手だった。

彼らの話を聞き、その作品を読むと、急に自分の「メッセージ」を込めた小説が幼稚なものに思えてくる。
これは自分の書く姿勢の根本的なことで、ほかの3点より重く受け止めていて、今も小説を書く上で、コンプレックスを持っている。

だから時々、「こんなメッセージを込めました」と話す作家さんに会えるとほっとする。

他にもまだまだあるけれど、落ち込むのでここまで。
以前、この話を通っている小説教室の根本昌夫先生にしたら
「そういうこと考えてる時点で、まったく小説をわかってない」と叱られた。

ですよね……。

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