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デザイナーの「批評」との付き合い方

もしこの文章を読まれている方がデザイナー、若しくは何らかのジャンルの表現者であるとしたら、「批評」について深く悩んだ時期が人生の中で1度や2度はあるのではないでしょうか。

当たり前ですが、表現というのは人の目に晒すことでもあるので、批評はつきものです。私も予備校時代、美大時代に特に悩んできました。
悩んで悩んで悩みすぎて、当時は大変でしたが、その経験が誰かのためになるならと思いシェアします。

  • これから表現の世界に入っていきたいけれど人の目に晒されるのが怖い。

  • 他人に色々言われて自分のセンスが信じられなくなった。

  • デザイン案を出すときにいつも人にどう思われるかですごく考えてしまう。

のように今も絶賛「批判」について悩んでいる方、
そんな悩みを持っている人に少し気持ちが軽くなる、考え方を変えてみる
きっかけになればいいなと思っています。


「批評」とは

そもそも「批評」とは、どういう意味でしょうか。
辞書を調べてみると、、、

批評(ひひょう、英語・フランス語:critique)とは、ある事物の是非・善悪・美醜などを指摘して、その価値を判断し、論じることをいう

weblio辞書

つまり、「批判」とは違い、全てが否定ではなくいい悪いをジャッジするようなイメージかと思います。子供の頃無邪気に描いていた絵や、小学生までの図工の時間はあまり批評は気にしていなかったと思うのです。そもそも小さい子が書いた絵は上手いからすごいじゃなく、ただただ素晴らしいといった感じでしょう。ではいつから批評を感じるようになっていったのか遡ってみると、、

私の場合、一番インパクトが強い「批評」に出会ったのは美大に入る為に通い出した予備校でした。


はじめての「批評」との向き合い

私はかなりガチめな運動部に入っていたので、
予備校に通い始めるのが周りの美大を目指す生徒と比べると遅く、初めは本当に苦しかったです。

絵が得意だという認識で、美術系に進んでいるのだから、ある程度は自分の絵・センスに自信がある状態でしたが、急に「デッサン」「平面構成」というルールの競技に放り込まされ、いつも評価は下段、大勢の前で自分の絵をダメ出しを受ける日々。これが初めて「批評」を意識した時でした。

以前もデッサンの記事でも書きましたが、予備校は1授業終わると講評があり自分のパネルをかける。自信がある人は中位にかけ、いつも下段の人は申し訳ないように端に置く。。うまく描けたものの解説や、惜しい人の解説、確かに技術を学ぶ上ではとても効率的だしとても勉強になります。そして自分自身がどのレベルなのかまじまじと知らされ、どこが悪かったかを教えてくれるありがたいシステムではあるのですが、同時に全員の前でダメ出しされる、残酷なシステムだとも思っていました。

こんな中でも、私はラッキーだったのはスタートが遅いということで、ハンデがあるから仕方ない!と自分の中で言い聞かせて納得できたこと。いつか追い越して見返してやると、ハングリー精神心&体育会系の根性で(めっちゃ昭和)なんとかメンタルは病まず、逆にその日々の「批評」を力に変えていくことができました。もし昔から長く予備校に通っていて、毎回上手い下手を決められていて、もし下段が多い日々が続いていたら、自分に「センスがないやつ」というレッテルを貼ってしまいそうで、怖い世界だとも感じました。


表現者<アーティスト>が特に向き合うことになる。

特に表現者は自分のセンス、自分の個性がかなり反映されている自分を映し出しているような「作品」を外界に出し、それにあれこれ言われるわけだから、若いうちは特に、まるで自分自身を否定されているような感覚にさえなると思います。

人の性格にもよりますが、美術・芸術系を目指している、携わっている人は感受性が人より高く、人一倍センシティブだったり、内向的で内側にワールドがある人が多いです。(私調べ)なので美大生って陽キャというよりは、何かに悩んで、苦しんでいる人が多かったし、キラキラの大学生♪みたいな人も中にはいたけど、あまりアーティストぽくなかったし、悩んで生み出している人の方が、表現者としては断然魅力的に見えました。

そして美大は権威のある教授からのダメ出しはとても辛かったです。一流の美術やデザインのプロフェッショナルであっても、教育のプロではないから若い人を潰すようなことを平気で言う人もいたし、特にデザインは絵と違って表現したあとに作品を鑑る人が好きなように感じるという意味合いが強いものより、デザインの意図や、ユーザビリティ、視認性など、他人からの見られ方を意識せざるを得ないので、結構苦しいジャンルなのかもしれないと今では思います。

そういうこともあって、美大のことの私は他人の見られ方を気にしすぎていたし、表現自体の悩み以上に、このあらゆる批評に対しての傷からの回復・感情の処理・防衛にすごく多くの時間悩まされいました。だから昔から心(マインド)や哲学的なことに興味関心があり、それは自分を守るため、保っているために必要なことだったのかもしれないと思うのです。

「いい言葉」が欲しかった自分

批評を受けて辛くなることも多々あったけれど、絵を描いたりすると称賛され、嬉しい気分になることもありました。
どこか自分にはそういってくれる人がいるんだと安心していました。

よくあるのは、学祭やグループ個展でよくある感想を書くための小さいクロッキー帳を置く文化。
見てくれた友達からのコメントが思い出にもなり、嬉しかったりするものですが、
3年の学祭で絵を展示して、感想メートを置いていたところ、匿名で作品について酷いことを書かれたことがあります。
その時は頭に来て、こいつ誰だよ出てこいや!って思って頭に血が上りましたし、これを見た私の友人が不快になるのも許せなかったです。私はすぐにそのページを破り捨てて、これ以降このような感想ノートを置かなくなリました。

そのコメントを書いた心無い人、それよりも私はノートを置いて「よかったよーー!」と優しい賞賛の言葉をかけてくれる知人友人のコメントを期待していた自分自身にとても自己嫌悪したのを覚えています。

卒業研究も、みんながノートを置いて思い出になるであろうメッセージを羨ましいなと思いつつも、自分がわかればいい、自然に入ってくるような直接面と向かって言ってくれるような言葉だけでいい、賞賛の言葉を必死に集めなくていい、と自分に言い聞かせ、「賛否」に対して少し距離を置いたような、目が冷めた気がしたのです。

まとめ 「結局人は…」

卒業して、その後制作会社に入って仕事をしていくうちにたどり着いた今時点の結論は、「結局、人は好きなことを言ってくる。」です。あからさまに悪意がある人は置いておいて、純粋に褒めてくる人も、悪意なく良かれとアドバイスしてくれる人も、みんな人の表現を好き勝手、良い悪いジャッジしてくるものだ、ということです。

それ自体は自然なことで、誰だって好みであれが好き、これは嫌いといいますし、ただこれはあくまでその言った個人の一見解ということです。

だから今でもクライアントにプレゼンする時は毎度どれが選ばれるかわからないです。だから自分の中でのこれがいいというものや、この人ならこれが好きだろうという精一杯の推測とデザインをしたのならば、あとは天に任せるというスタンスでいます。
同じものを出しても人によって「全然だめ、違う!」「めっちゃいい!!!」と違うことを言われる場面を多々経験してきたので、こればかりは心の中では「運ゲーだな」と思うくらいライトに考えていた方が精神衛生上良いと思うのです。そしてもし、これから、これを読んでいるあなたにとって嬉しくないキツイ批評をもらう場面があったのなら、その批評はあなた自身の価値には一切関係ないということを忘れないでください。その心無い言葉で、いろんな可能性のある才能を閉ざさすことが無いように、自分の表現を信じて欲しいです。

そして私自身も批評やもしくは承認欲求に惑わされていないで、自分の表現を追求していきたいですし、自分の才能を活かした仕事で誰かの役に立つことが出来ているのならば、そんなことを気にしている暇はないんだと言い聞かせてて、日々デザインをしていきたいです。

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