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お盆の夢に出てきた人

先週はお盆であった。
毎年なにをするというわけではないけれど、死んだ父や友人が会いに来てくれたら嬉しいな、とは思っている。

けれど、今年は亡くなった人間ではなく、生きている人間が出てきた。相手は半年以上前から距離を置かれている友人だった。

※友人の話は下記の記事で少し触れています。

友人についての詳しい話はしないが、とにかく今は連絡も取れなかった。(拒否されているようだ)その理由について推測はできても、確信は持てない。よって今は考え続けても仕方がないと思っている。

また最近になり、親しい人間から自分が納得できるいくつかの言葉をもらったため、この件について完全に心の整理ができたわけではないにしろ、ある種の諦めがついていた。

そんな中、その友人が夢に出てきた。距離を置かれるようになってから彼女が夢に出てきたのは、今回で2回目(もしくは3回目)だった気がする。
初めて夢に出てきたとき、わたしは嬉しくて友人に話しかけまくった。再び親しい友人関係を築けると思ったからだ。だから、目が覚めたときの虚無感はすさまじいものだった。

そして今回、友人が夢に出てきたときのわたしは幾分か冷静だった。わりと早い段階で、これが夢だと気づいていたのかもしれない。けれど、夢の中の友人はいつも通りで、だからわたしもいつも通り相手と交流した。

その数日後、また友人が夢に出てきた。まだお盆の最中だったかもしれない。相手のことを強く願ったり、考えたりしていたわけではないのに、こんな短期間でまた夢で逢えるのは珍しい気がした。しかも、わたしの気持ちがある程度”整理”できている状態で。

そういえば、8月は友人の誕生月でもある。今年は祝わなかった。連絡しても反応はないだろうし、祝われても迷惑だろうと思ったからだ。だけど、なんとなく相手のことが気にかかる。健康で元気でいてくれたらいいなと思う。

なぜ二度も夢に出てきたのかは分からないし、理由もないかもしれない。けれど、わたしの中で友人が”整理のついた相手”という「枠」に入っているのかもしれない、とは思った。その枠の中には、もう会うことのできない父や友人らが入っている。たがそれは、夢に出てきた友人を「死んだ人間と同じ扱いにしている」というのとは違う。しかし、その存在に縋りつくことはないという意味では、やはり父たちと同じ枠にいるのだ。


今日は一日中頭が痛く、ずっと寝ていた。昼食を取り横になると、父が夢に出てきた。今も健在の母と夢に出演していたが、ロクな内容ではなかった。なぜか父が夢に出てくるとき、わたしはブチ切れていることが多い。しかし、夢の中のしょうもないエピソードはすべて捏造であるのだから、それなりに不愉快である。なぜそんな夢に出てくるのだ、やめてくれ。

起きるとなんだか疲れていた。まだ頭も痛い。残りの土曜日も、変わらず無理をしないで過ごそうと、この記事を書いている。

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