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人生狂わすタイプ

宇多田ヒカル。彼女の音楽って清水のように身体に浸透する感覚がある。
彼女の音楽を聴いたことがある人だったら誰もが同意してくれることなのではないだろうか。

彼女の書く歌詞は、至極簡単な日本語ばかりが使われている。歌詞を読み、意味を理解するだけだったら小学生でもある程度できるのではないだろうか。しかし、これは文字面上の意味だけの話。歌詞にはもっと深い世界が広がっている。
宇多田ヒカルの魅力というのは、その歌詞に含まれる情景豊かな世界観だ。彼女の書く歌詞は俳句や和歌などの表現に近いのではないだろうか。
彼女は多くを語りすぎない。歌詞と歌詞の間に余白があるとでも言うのだろうか。その余白を埋めるものは、彼女の楽曲を聴いた人それぞれによって異なるものである。彼女の人生観で楽曲に補足をしてみたり、己の人生をそこに重ねてみたりするのである。


これもおそらく彼女のことを好きな人であれば頷いてくれる内容であると思うが、その歌詞は一般的に共感しやすい内容が多い。
これは余白を作るうえではやはり非常に重要な要素のひとつだと思う。

・君と食べたカレーはおいしかった。

この文章には余白があると思う。君と食べたからカレーがおいしかったのか、君と過ごす日常の幸せとしての1シーンを描いたのか。はたまた特に意味はないのか。カレーは生活に馴染んだ食べ物であるからこそ、私たちはそこに自らの経験を投影して想像力を膨らませることができる。
一方カレーがもっとマイナーなもの、例えばイナゴの佃煮とかの場合では、どういう状況なのかがいまいち理解できないのでは無いだろうか。情報過多であり、それと同時に状況が狭義的である。そもそもイナゴの佃煮を食べる機会がほぼないし、ましてや君と食べる機会というのはもっとない。大多数の人たちからすれば経験がないために想像するための余白がないのである。

例えがあまり上手くなくて申し訳がない。しかしながら、宇多田ヒカルの曲は常に一般的なのである。至極普遍的な価値観を彼女は歌い、そしてそれの解像度がものすごく高くて、含みもある。だからこそ楽曲たちは、私たちの想像力を持って色彩豊かな情景を生み出していく。



宇多田ヒカルはやはり天才だとはよく言われていて。宇多田ヒカルは楽曲のメイキングに関しては本当に天才的なのだと思う。私は楽曲づくりの技だとか技術だとか、そういうものについては全く詳しくはないので事細かに何が凄いだとかは語ることができない。
しかしながら、私も今まで生きてきて本当に多くの音楽を聴いた。自慢じゃないが(引かれるかもしれないが)、Spotifyの年間リスニング時間は2000時間を超えたこともある。それくらい様々なアーティストを好きになって、いろいろな音楽を知って、たくさんライブにも通った。それでもなお私がSpotifyの記録上一番聴いているのは宇多田ヒカルである。彼女の楽曲の心地よさはいつだって私を気持ちよく満たしてくれた。



宇多田ヒカルの感性に関しても特筆すべき点があるだろう。確かに彼女の感性は繊細で、感情の動きや誰もが持っている心の機微を捉えていることに長けていて。なぜそんなに私のことを分かっているかのような歌詞を書けるのか。そのような感想を抱く人も何人も見たことがある。

これに関して私なりに思うことがある。
宇多田ヒカルだって日頃考えているようなことは私たちとさほど変わらないのではないかって。
私だって、彼女のことは博識で美学があって、それでいて音楽的才があって、思慮深くて、非の打ち所がないような人として認識している節は否めない。しかし、それと同時に彼女も私と同じ1人の人間であることは常に意識しているような気がする。
例えばそれを感じさせるのは、彼女の楽曲に色濃く滲み出ている孤独である。孤独にもいろいろな種類があって、様々なニュアンスがその言葉には含まれている。人それぞれ孤独の種類は違えど、宇多田ヒカルという人間でさえも孤独に悩んでいるというのは、あまり言い方が良くないかもしれないが少し安心できるような気がする。宇多田ヒカルでさえ孤独なのだから、私たちだって孤独に感じるのはどうしようもない、みたいな。
孤独というものは誰しもが感じているものであり、おそらく根本的な理由というものはさほど大差があるものではない。
そもそも人間は分かりあうことができないという虚しさも理由のひとつ。それでも、大切な人と少しでもより多く分かり合おうとしたい。しかしながら、分かり合おうとすると傷ついてしまう私たちに対する不甲斐なさ、虚無感、どれも孤独を構成するものの一要素でしかなくて、孤独というものは底が見えない。
宇多田ヒカルは自らの孤独を曝け出す。だからこそ私たちは彼女の楽曲に共感ができるし、私たちも彼女に寄り添うことができる。つまりは孤独の共有だ。彼女の孤独は負の感情ではない。むしろ、孤独であることをひとつの前提として、全てを受け入れることを選んだ強さを感じる。それは祈りにも似た種類の強さだ。私たち人間に潜む孤独。それは私たちと彼女との共通言語になっているのではないだろうか。

“PINK BLOOD EXHIBITION”にて


宇多田ヒカルの音楽の世界。その世界に呼応する私たちというような図式はよく宇多田ヒカルファンの間で言語化されているが、私は少し違うと思っていて。
先述したように、宇多田ヒカルだって私たちと同じひとりの人間である点を考慮した場合には少し見方が変わってくるのではないだろうか。
例えば、私が思うに宇多田ヒカルの描く感情は、すでに私たちが持っていた感情の一部に過ぎなくて、私たちはその感情を普段認識できていない。宇多田ヒカルは楽曲の中でその感情を言語化する。そうすると、私たちはその感情が自分の中にあったことに気づくのだ。
感情というのは、その場面ごとに抱いた思考の機微を言語化したものだと思う。同じ種類の感情でも捉え方によって少し釈然としない言葉になることがあって、それをフィックスさせるためには自らの言語能力を鍛え、考え続けるしかない。宇多田ヒカルはおそらく、大量のインプットをこなしたうえで、それを自らの音楽にアウトプットさせている。思考を言語化するということは難しいのだ。
宇多田ヒカルは、インプットに裏付けされた類まれなる繊細な歌詞によって、この感情にはこういうアプローチからの捉え方もあるよねと私たちに提示する。それは私たちが普段わざわざ言語化しないような、しかし本質的に大切であると理解している感情の形なのである。
その歌詞がすんなりと私たちの心に浸透するのは、彼女自身が自分自身と深く対話し、彼女の深層心理的な部分から感情としての言葉を抽出し、歌詞として、そして音楽として昇華しているからだろう。人間の根本的な欲求というものは似ている。だから私たちは、彼女の楽曲に対して深く共感を得ることができるのである。

PINK BLOODのTシャツ。家宝。



私の一番好きな曲は「Play A Love Song」だ。

友だちの心配や
生い立ちのトラウマは
まだ続く僕たちの歴史の
ほんの注釈

宇多田ヒカル Play A Love Songより

この歌詞が本当に好きだ。ここまで散々書いておいてだが、私は宇多田ヒカルが全て正しいとは全く思わない。
彼女は時々インスタライブなどで、私たちファンの質問や悩みに答えている。その質問の答えが、彼女の培ってきた科学的な知識や、彼女自身の哲学によって裏付けされたものばかりで、非常に含蓄に富んでいる。
Twitterなどでも彼女の言葉、考え方は素晴らしいものだとツイートがされ、そのツイートがバズっていたりしているのも時々見る。しかしながら私はそこまで彼女の言葉を真剣に捉えたことはなくて。なぜならば、やはりその言葉たちも私の中のほんの「注釈」として考えているからである。

私にとって様々な音楽に触れること、映画を観ること、何かを学ぶこと、誰かと話すこと。何でもいい。それらの行為というものは、私自身の生き方の指針を修正していくためのものだと私は考えている。
私は本当にいろいろなものに影響を受けていると思う。しかしながら、なにかから得た価値観をそのまま鵜呑みにしてしまうようなことは決してしない。一度自分の中に蓄え、咀嚼する。他人の考え方って結局自分の考え方とは違うわけだから、他人の考え方を自分の考え方に変換するワンステップが必要になると思う。考え方にだって取捨選択が必要なのだから。
そう、私に影響を及ぼすもの全ては私にとってはほんの注釈なのである。私という一つの物語があって、それが淡々と続いていくだけである。しかしながらいろいろなものに影響を受けている。そしてその様々な注釈こそが私の人生を彩っている。宇多田ヒカルの音楽も、もちろん例外ではない。



宇多田ヒカルの好きなところって他にもたくさんあって、その一つに彼女の楽曲における目線、どこを向けて歌っているか、というのがある。
宇多田ヒカルの楽曲は前述したように非常に内省的である。自分という人間について深く潜って、そこから出される言葉は自分のこと、もしくは隣にいる誰かの人間について歌っており、非常にクローズドである。そして彼女は「頑張れ」という言葉を使わないのである。

頑張れってよく使われる言葉ではあるけれど、どこか的外れな時ってある。悲しい時とか、やるせない時って頑張るしかないのだけれど、頑張れって言われても途方に暮れてしまうことがある。

頑張れと言えば、「人にやさしく」。THE BLUE HEARTSの曲である。

期待はずれの 言葉を言う時に

心の中では ガンバレって言っている

THE BLUE HEARTS 人にやさしく より

どんなに優れた語彙力を持っていたとしても、頑張れっていう単純な一言、それを言ってあげることが最適解の時だってたくさんあると思う。

少し余談だが、ブルーハーツのこの曲は頑張れって言葉の限界を知っている歌詞だと思っている。上記の歌詞に加え、「マイクロフォンの中からガンバレって言っている」、「聞こえるかいガンバレ」。
マイクロフォンの中に留まって、外に出ることは無いガンバレ。
聞こえるかいガンバレは、どちらかというと魂の叫びのようなものに近いのではないかと思っていて。お前だっていろいろな思いを抱えているだろう、俺はお前を認めているよ、事情は分かんないけどこの言葉を送りたいよ。といった感じだろうか。
人にやさしくの主人公は実際に口に出して「ガンバレ」と言っていないのではないだろうか。頑張れって言葉、基本的には足りないのである。
足りないことは分かりつつも、「ガンバレ」と言いたいのである。それは対象となる誰かへの全肯定の意があるのだ。

しかしながら大抵の場合、やはり「ガンバレ」は期待外れの言葉になってしまっているのは事実だろう。事情も分からないのに頑張れなんて言うなんて無責任じゃないかと。そのような価値観は割と根強いから。

宇多田ヒカルの話に戻そう。
例えば人生の岐路に立たされた時、本当に必要なのは頑張れという言葉ではなくてきっと誰かに寄り添ってもらうことであって。どの選択がベターであるかというのは自分が一番よく知っているものである。宇多田ヒカルの楽曲は本当にそこにいるだけ。うんうんと話を聞いてくれているだけ。しかしそれはある種の信頼のようである。どんな選択をしたとしても、私はあなたを信じているよ、と言われているかのような。
これは宇多田ヒカルが出したひとつの優しさの形なのだと思う。どんな道を選んだとしても、絶対に自分のことを信頼してくれている人がいることの心強さというのは、どんな頑張れという言葉よりも勇気がもらえるものだと思うからだ。他者を全肯定をするという彼女の価値観は、先述したような人にやさしくの歌詞にも通ずるものがある。信頼してくれている人、見ていてくれている人がいること、それは他者にとってこれ以上にない激励になる。
その信頼の形というものは、クローズドな人たちについて書かれた歌詞であるからこそ有効性を発揮する。クローズド、それは親密性の証であって、彼女が他者のことを自分事として描かれた目線をそこに感じるからである。
彼女は第三者、つまり不特定多数に向けてでは無く、唯一のあなたに向かって歌詞が書かれているのだ。

落ち着いてみようよ一旦
どうだってよくはないけど
考え過ぎているかも
悲しい話はもうたくさん
飯食って笑って寝よう
Can we play a love song?

宇多田ヒカル Play A Love Songより


私は2016年にリリースされた「Fantôme」以降の宇多田ヒカルが特に好きである。そのアルバムを境に彼女自身のパーソナルな感性が大きく滲み出てきたような気がして、楽曲に憂いを纏うようになった。それは、彼女自身が他者、そして自分を受け入れることの包容力であって、色々なことを経験したからこそたどり着いたひとつの境地をそれらには感じる。



いつか彼女について、私が普段から考えていることを書きたいと思っていたら随分と時間が経ってしまった。
宇多田ヒカルは好きだ。書き始めたら案の定止まらなくなった。自分で読んでみて割としっくり来ていて、考えていたことがそこそこ上手く書けたのではないかと思っている。私が思う宇多田ヒカル像はこのような感じだ。
本当に恐れ多いのだけれど、気の許せる友人のような、そのような親しい印象を私は彼女に持っている。
今こうしてまとめることができてとても嬉しい。

彼女って年齢の重ね方が本当に素敵で。宇多田ヒカルって、若いころよりも今の方が絶対魅力的。最高潮がずっと今この瞬間というか。
宇多田ヒカル自身も歳を重ねることにそこまで抵抗はないのではないだろうか。本人と話したことがないので分からないが。
どちらにせよ、私も彼女のような年齢の重ね方がしたいと常々思っている。楽曲は作れなくても、私は私の分野でインプットを重ねて、自らの言語感覚や感性、クリエイティビティをを深めていきたい。

そして欲を言えば来日(?)公演を行ってもらえると非常に嬉しいです。
ずっと待っています。

私が人生レベルで好きなアーティスト、宇多田ヒカル。
一生に一度くらいは彼女と話がしてみたい。



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