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【小品】BURNT Cut Pavillion



 ヤケドという名の女は君の真後ろに立っている。
 そのとき君は持ち帰りの事務作業──或いは隙間時間に家事をしている最中だったかも知れない──を終えてひと息吐いていたのだろう、重くなり始めた目蓋にあとすこしだと言い聞かせて引っ張り上げ、しかしその甲斐なく閉じていくそれに一種の快楽すら感じていた。寝入る瞬間のあの快楽と殆ど同じものを疲労に照らし合わせていたのだ。
 ヤケドという名の女は君に囁くためにそのか細い腰を曲げた。
 まだ眠ってはならぬと真面目ぶるペルソナに促されるようにして手を握ったり開いたりを繰り返していた君は「ゆきさきを」と囁く声を聞いた。「教えてくれるかしら」……この部屋には自分しかいない筈だと君は驚いて振り返る。強盗か変質者か、或いは怪奇の類か。急速に目覚めていく身体に漲る血流を感じる。それは鼓動を細かく速いものに急き立て、腋下にじっとりとした汗を誘発した。
 ヤケドという名の女は君に向かって笑顔をみせた。
 弧を描く赤い唇の、そのフォルムになにか懐かしいものを思い出しそうになったが、それでも知らない女だ、と君は直感した。しかし、まるで古典映画のなかのわるい女のような恰好をした彼女を、ひと目で敵ではないと認識した君は、わるい女のようなのに不思議だなと思ってみたりする。その程度の余裕がうまれるほど、君の本能の警報機は彼女に対して反応をしない。しかしこの存在のなめらかさといえば、もしかしたら彼女はスパイなのかもしれなかった。しかし自分のところにスパイが来るような謂れはない。
 ヤケドという名の女は君をまっすぐ指さした。
 人差し指の楕円と長い爪の赤い切っ先に、寄り目になった君は一瞬だけ眩暈を起こす。夢うつつで足を踏み外したときのような胸に悪い浮遊感を味わいながら、君は知らないあいだになにかの扉を潜っていたらしい。がちゃんと重たい音がして、しかしそれからは音沙汰もない。落下していると思い込んでいた君は衝撃に備えようとかたく閉じていた目蓋を開いた。
 ヤケドという名の女は君の傍らに立っていた。
 君の目の前には遊園施設が広がっていた。薄暗い冬の夕暮れに、ぼうっとした暖色の電燈で照らし出されたその光景は、どこか懐かしく、具体的な施設名を幾つか思い浮かべてはみたものの、そのどれでもあり、どこでもないような感じがした。途端に寛いだ部屋着姿であったことを思い出し、真面目なペルソナが羞恥に悶える。
 ヤケドという名の女は君に向かって手を差し出した。
 君は彼女の手を握ってかえす。自分からエスコートすべきなのではないかと思ったが、それは彼女の外見から勝手に判断し掛けたことであり、それはよくないと直ぐに反省できるほど、君は善人であった。彼女の手はつめたく、柔く、それでいて愛おしいような感触がした。ふと、自分が余所行きの服装に変わっていることに気が付いた君は、驚いたもののそれらが自身のお気に入りかつ動きやすいと分類しているものであることに気が付いて、この変身は彼女のせいではなく自ら進んで着替えたのだと得心した。
 ヤケドという名の女は君を促して歩き始めた。
 どれに乗りたい? と問われて君はすぐには答えられない。そのくらい君は大人になってしまったし、年相応の羞恥心が身に染み付いてしまっていた。
 ヤケドという名の女は君をみつめて悲しそうな目をした。
 それが自分事のようにせつなくて、君は「じゃあ」と明るい声を出した。ぐるりと辺りを見渡すと、脚でゴンドラを漕いで天高く昇って進む遊具や、鉄塔の上から自由落下する遊具、振り子のように運動する海賊船、食事ができそうなパビリオン、ホラーハウスなんてものもあるようだ。それから一等目立つ観覧車、ひと際豪華な仕様のメリーゴーラウンド……それらを眺めて数えているうちに、決めきれない子供心が突沸した。そうして君は遊具のすべてを回ることとなる。
 ヤケドという名の女は好んで「素敵」という言葉を使った。
 その言葉を聞く度に、君は自分の中の美を想う気持ちや思考の胆力、成してきた物事を肯定されている心地になった。さいごに回ったその場所で、赫奕たる暁に融け入ってきえていく施設の夜燈を見た。彼女はしずかに君をみつめて笑った。「素敵ね」と。……そこではじめて君は口にした。「素敵だね」
 ヤケドという名の女は君に微笑んだ。
 その赤い唇の描く弧が、自分の負ってきた火傷の痕なのだと君は知った。いつまでたってもよくならない胸の痛みの数々を思い出し、君の目には涙が浮かんだ。いつまでも瑞々しい気持ちでいたかった。けれど生活というものは響きに反して困難で、よりよいものを目指しているつもりなのに前進しているようには感じられず、焦りを感じれば感じるほど心の鎮痛作用が停滞をもたらした。君は疲弊していた。でもいつでも彼女が君を見ている。君の気付きや経験は時折痛むかもしれないけれど、きっといつかそれは目指したものを彩るエピソードへと変わるのだ。
 ヤケドという名の女は君を送り届けた。
 眠っている君が冷えないように毛布を掛けてやり、こうして彼女は今日の仕事を全うした。安堵のなかしばらくその寝顔を眺めていた彼女は、寝返りを打つ君の肩がずらした毛布を直してやりたかったが、もう君に触れられない。時間が来たのだ。そして彼女は誰かの足音を聞く。きっとこの毛布を直してくれる人だ。それはパートナーかもしれないし、家族かもしれないし、もしかしたら君自身かもしれない。
 ヤケドという名の女は窓から外に飛び出した。
 暁がわるい女のリップを照らす。



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