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君の不思議な詩を思い出す

こんばんは。前回は挨拶・個人的な前語りに終始していたので、今回よりさっそく短歌について読者に向けた話をします。

はじめに。このnote・マガジンの目的は、できるだけ等身大な言葉で、私の思う短歌のよさを読みほどくことです。短歌がどんなものか知らない、知っているけどわからない人(これはどんな歌人でも突き詰めたらそうだと思いますが…)に向けて、私なりのわかり方・よさの感じ方を伝えたいと思っています。

一般的に短歌の「評」というと、信頼性を裏付ける文体が前提であり、一切の隙を埋めるに十分なほどの文学的な背景知識や思考形式がふんだんに盛り込まれています。確かに読まれるべき価値は大いにありますが、多くの人にとって、それらへのアクセスは容易ではありません。

そこで、ここではいわゆる「評」というよりも単なる感想のような形で、「いいよね」から一歩ずつ踏み出し「なぜよいと思ったのか?」をぼんやりと解き明かすことを目指します。

いわば、短歌という深遠な肴をつまみながら、透明な酒を舐めつつ理屈をこねてみるわけです。けれども、そこに信頼に足る形式はなく、教養に裏付けられた権威もなく。けれども一読者の辿った足跡として、誰かのなにかの折の標べになれたらとても嬉しいと思います。こんな読み方があるんだ、ぐらいの。

といったことを今決めたわけですが、すでに前回の投稿にリアクションがあって、驚きました。まだ中身の入っていない容器のような状態ですが、興味を持っていただけて嬉しいです。方向性も着地点もあまり定めていませんが、これから少しずつ中身を充実させていきますので、みなさま何卒お付き合いください。

短歌のめざめ

マガジンの流れとしては、そもそもなぜ短歌なのか?という点について触れるべきかもしれません。

実際、私生活でも関係者・非関係者問わず結構な頻度でよく聞かれます。周囲の人からは「どんなきっかけで?」短歌関係の人からは「俳句や詩ではないのはなぜ?」と。間接的な要因として、小学生時代に俳句に触れる機会があって〜とかそういうキーワードが一応あります。が、結局なぜ作り始めて今に至っているかという点については、これ!といったかっこいいエピソードがないんです。

一応、大学時代の20歳ごろから5年以上も続けていることになるんですけど……ちょうど夏、大阪の天神祭に合わせた一般応募の賞レースがあって(「祭」がテーマの題詠2首)、たった31文字×2作品で賞金が出るならやってみよう、みたいなごく浅はかな動機でした。思えば。そういうチープな気持ちでも飛び込める敷居の低さは大きいですね。

当時、大昔に習った俳句のセオリーや一般教養として備えていたありったけの知識で「言いたいことを直接言わないのがクール」(これはたぶん当たってた)「掛詞は最高」(現代はそうでもない)等を盛りこみ、今では考えられないようなダサ短歌を提出しました。もちろん箸にも棒にもかからない結果でしたが、それを機に「じゃあ今の『かっこいい短歌』ってなんだろう」と調べ始めたのが私のスタート地点です

そうしたらですね、なんといってもたった31文字の詩型なので、twitterとの親和性がものすごいんです。ミニマムな文学×ミニマムな情報媒体。専門誌や歌集の売り場を知らなくても、作品botがあるのですぐに「短歌」に触れることができる。歌人自身も日々発信しているし、次の瞬間に自分でも作品を公開することができる。詠む題材は多くの人が日常から着想を得ていますし、敷居の低さ、すなわち受信・発信両面でのアクセス性の良さというのが短歌の大きな魅力であり特徴だと思います。

私の場合は、複数作者の短歌をtweetしているbot (夜空の短歌bot @yozoratanka_bot)がとても気に入って、しばらくの間はこれを中心にフォローしていました。今なんとなく同botで見つけた歌を引きます。

銀河から降りくるすべてのものたちを受けとめるためひろげる手のひら /岡崎裕美子

このbotでは星や月といったモチーフのある短歌を発信していて、写実というよりは幻想的、引いた歌でいうとアニメーション映画のワンシーンのような景が浮かびます。ちょうど先日「君の名は。」を地上波で観て光の表現に圧倒されたところなので、この歌には個人的に無視できない良さを感じました。

広大な銀河から何が降りくるとしても、到底なにひとつ受けとめられないような、手のひら。その小ささという対比。「すべてのものたち」「ひろげる」と、ひらがなめいている表現はやさしく淡く舌ったらずな印象があり、いい意味で具体性が感じられません。「宇宙」ではなく「銀河」という言葉の選び方も、詠まれている景が現実の延長ではなく、むじゃきな夢想であることを示しているようです。

短歌を始めた当初は特にこのような作品から影響を受けていましたが、今でも写実というよりは見たことのない景色を見るための歌を好む傾向があると思います。

で、いったい短歌のなんなのさ

何って、なんていうか、短歌って手のひらサイズの宇宙だと思います。誰もが次の瞬間には読み終えられるサイズなのに、その解釈には果てがない。あるいは、お守りみたいな言葉。軽やかな韻律で、心のすきまにすっと挟めて、何かの折にふと思い出してみたりする。

後者の観点でいうと、短歌とコピーライティングってすごく似てるんですよね。短い言葉で本質が伝わったり伝わらなかったりして、とにかく記憶にすっと挟まる。

歌人の木下龍也さんがコピーライター志望だったということを知って、ものすごく腑に落ちた記憶があります。どちらも言葉のデザインという形式は同じで、その目的や解釈の余地が異なるんだと思います。解釈に余地がありすぎるコピーは伝わらなくてきっと大変ですが、一方で、解釈の余地を狭めることで読者を道に迷わせない、コピー的な短歌もあります。

生前は無名であった鶏がからあげクンとして蘇る/木下龍也

わはは。この点では、魅力を伝えるための"ツール"であるコピーより、"作品"である短歌の方が自由だといえます。

超当たり前のことですけど、コピーとは「魅力を伝える」つまり課題の解決、意図したアウトプットを得るための"ツール"。一方、短歌はそれ自体が"作品"であり目的たりうるので、作品外の因果関係からは自由なんです。どんな文脈からでも出現することができる。作者の私生活から、意識と白昼夢のすきまから、言葉遊びからでもどこからでも歌は生まれる。そしてそれが何をもたらすか、どんな余波(アウトプット)をもたらすかは誰にもわからない。デザインとアートの関係でいうと、短歌は間違いなく後者です。


「短歌」という括りはおそらく、音楽でいうと「バンド」のような、表現の形態を指すものに過ぎません。しかし現状、競技人口が少ないこともあって、ポップもロックもメタルもプログレもみんな同じ会場同じライブに出演しているような、そういうルツボ感が短歌界隈にはあります。歌会はフェスか。

一口に小説といっても様々なジャンルや文体があり、また近代と現代では作品の色合いが大きく異なるように、短歌というものも現代の潮流はとってもポップだったりロックだったりして、刺激的です。

そんな、手のひらにとどまらない文学を、わからないなりに少しずつ読みほどいていきたいと思います。

日溜まりのなかに両掌をあそばせて君の不思議な詩を思い出す/穂村弘


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