見出し画像

歌は剥かれるのを待つ果実

こんばんは。昨日は、大学短歌バトル2018を観戦してました。温泉の休憩室より湯冷めしながらの観戦でしたが、それを上回る熱い闘志に触れ、トータルではとても熱くなりました。早稲田短歌会の皆さん、優勝おめでとうございます。


勝負の形式としては「歌合」と呼ばれ、各チームには提出歌の作者「方人(かたうど)」と味方の歌をアピールし敵方の歌を批評する「念人(おもいびと)」がいて、それぞれの提出歌の優劣を審判「判者」が決定する、というディベートのようなものでした。

私は参加経験もなければ観戦するのも初めてでしたが、限られた時間内で自陣の歌を効果的に解説し、また的確に敵陣の歌を批評する手際には目を見張るものがありました。
提出歌そのものの優劣もありますが、相手を納得させるだけの妥当な読みをするのは本当に難しい。

というか進行のテンポがすっごい速くて、見てる分には飽きなかったのですが、あっさりと勝敗が決していくのが本当に惜しかったです。
きっと誰もがもっとたくさん話したかっただろうし、私はそれを聞きたかった。

それにしたって、短歌を噛み砕いて飲み込むのにはそれなりの時間がかかるのに、歌会も歌集も雑誌もネプリにしたってものすごい物量で次々と歌が手渡されるわけで、他の人たちは一体どんなCPUを搭載しているんだろう。。

あと、当たり前なんですけど、審査員(歌人)の評がするする腑に落ちる。惹かれた点も理解に躓いた箇所も、痒いところに絶妙に手が届いては新たな視界が開けるようなコメントばかりで、月並みですがプロフェッショナルの力量というものを感じさせられました。


解釈の地平

どんな芸術も、鑑賞にあたってはそれなりの「読み(手)の技量」が要求されるものだと思いますが、こと短歌においては「詠み(作歌)」と同じぐらい「読み(評、解釈)」が大事だといわれます。

読みが作品の位置付けを左右するとも言えるぐらいで、他者の評の如何によって歌がアップデートされる場合もあるんですよね。実際に勝負では念人や審査員の評を聞いてより魅力が増したり、新たな視点が得られた歌もありました。

電球のかさにぶつかる蝿の音こんこんどこまでが恋だった /武田穂佳(象短歌会):題詠「蝿」
二人でつかう櫛を買いましょう 毛並みを似せて群れになりましょう /染川噤実(早稲田短歌会):題詠「櫛」

そんな短歌の解釈ですが、作品は同じでも受け取る人によって好みや知識のバックグラウンドが異なるので、もちろんそこには最適解など存在し得ません。
しかし、好みのような属人的な要素と切り離して技術の巧拙に言及することは十分可能ですし、当然ながらその向上を追求することが重要です。

歌を作るにあたって、例えばありがちな表現に止めてしまったり、有効とは言えない表現(例えば比喩)を押し通してしまったり。
あるいは読むにあたって、言葉の面白さや美しさにかまけて内容の整合性や妥当性をうやむやに捉えてしまったり。(自分の場合だと、読み方の癖≒作歌の癖であるように思います)

短歌にルールはないし、時に冒険した表現が新鮮で爆発的な魅力をもたらすことはあります。しかし、その中には確かに有効なものとそうでないものの線引きが存在します。
説得力だとか、必然性だとか、要は読み手へリーチした上で、効果的に作用しなければ意味がないんですよね。

そういった「表現の有効性」の多くは個人の好み以前、普遍的な問題に起因するため、常にそこには研鑽の余地があるのだと思います。(自戒)評価されないのは読む人が悪い!なんてそう簡単には言えないですし、やり方が自由であるからといって「どんなものでも良作」にはならないわけです。本当に難しい……。


反射する表現

私は現在、歌会はおろか作歌からも距離を置いているモグリなわけですが、今回改めて表現の難しさを噛み締めると同時に、猛烈に「歌を作りたい!」という衝動に駆られました。

歌をみて、作者の伝えたいこと・やってみたいことは察知できるけどこれでは伝わらない、ともどかしく思う。表現をみて、それがいかに効果的であるかを伝えたいと思う。
そういった心のうねりがたくさんあって、まるで自分で作った歌のようにすべての勝負を見ていました。誰かと向かい合って歌のことを話したい、話すきっかけになる歌を自分が作りたいという気持ちが生まれたんだと思います。

歌のない批評がないように、読み手のいない歌もまたありえません。たとえば歌会では作り手が歌を発表するだけでなく、読み手も「評」を発信することで、提出歌のあらゆる側面が浮かび上がってきます。

そもそもが限られた情報量でもって、ごく個人的な経験や心情や光景を表現しているものですから、それを完全にわかるのはどんな読み手にとっても様々に困難です。

そんな様々な「わからなさ」から出発して、「わかる」ことを目指して作り手と読み手がコミュニケーションを試み続ける。それが短歌のもっとも面白い要素だと私は思います。


誰かが表現を投げかける時、必ずそこには反射して生まれる解釈があります。そして、その解釈が歌自身に返されることで初めて、歌は相対的な位置を獲得することができるのです。

そのように双方向的で、読み手を猛烈に要求するコミュニケーションの権化であるところの短歌が、ともすれば閉じこもろうとしてしまう私の心にさえ鋭く迫り来るのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?