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なぜウクライナの人たちの戦いを支持するのか

 ロシアによるウクライナ侵攻後、ドイツのベーアボック外相は独連邦議会で「この戦争はわれわれの自由に対する攻撃だ。誰も中立であることなどできない」と宣言した。侵攻前、武器供与を求めるウクライナにヘルメット5000個を送るにとどまり、各国をあきれさせた独政府は、軍事支援に慎重だった方針を180度転換した。

 日本でも、「犠牲が増える一方なので、ウクライナ側は降伏した方が良い」と唱える向きがある。無駄な抵抗をやめて今ある命をいとおしみ、現実を見据えた新たな道を模索すべきだ、という論だろう。

 なぜウクライナの人々はロシア軍と戦っているのか。ロシアに屈すればウクライナという国だけでなく、文化や言語、ひいてはウクライナ人としてのアイデンティティすら奪われてしまうかもしれない。強圧的なロシアの統治下に入れば、破壊の中で目にする以上の人権侵害が横行するのは確実だ――。

 なぜロシア軍と戦うウクライナの人々を支援すべきなのか。ロシアの思う通りの行動を許せば、次はバルト3国やウクライナの隣国モルドバ、ひいてはポーランドにまでロシアのプーチン大統領の魔手が伸びかねない。そうなれば北大西洋条約機構(NATO)とロシアの衝突に至り、核の惨禍を伴う第3次世界大戦を誘発しかねない――。

 「ウクライナ国民は降伏を選んだ方が良い」という主張への反論はいくらもある。だが、テレビで流れる子を失ったウクライナの母親の涙は、「一人の生命は地球より重い」という命題を肯定する反戦論者の感情を激しく揺さぶる。今ある命の貴重さともろさの実感は、一連の反論を時に無効にする強さを秘めている。

 それでも、戦いが長引き、戦禍が拡大することを承知していてなお、ロシア軍の侵攻に立ち向かう人々を支える姿勢を崩してはならないのはなぜか。それは、ロシアへの抵抗が、ウクライナに今ある命だけでなく、これからウクライナで、そしてロシアを含むそれ以外の国で生まれてくるであろう命のための戦いであるからだ。

 ロシアに何ら逆らわずにウクライナが敗れれば、それ以降、首都キエフではプーチンを非難するデモを開けなくなり、街頭で反プーチンを叫んだ者は監獄に送られるだろう。ウクライナが無条件降伏し、モスクワの沿道でロシア国旗を打ち振る勝利のパレードが実施されれば、プーチンの強権体制はいよいよ強固となり、ロシア市民は官製プロパガンダ以外のニュースを目にすることはなくなるだろう。彼らにとっての真実は以降、「プーチンにとって都合の良い世界」というフィクションに取って代わられることになる。

 「プーチンの世界」に生まれ落ちた子供たちの大多数は、言論・市民的自由を知らず、事実ではなくフィクションに取り囲まれ、フィクションを守るために必要なら暴力をもって少数派を抑圧しても構わないという国家の教えの中で育つことになる。自由を信じる少数派の子供たちは、周囲の大人の目を恐れながら、自らの信条に対する懐疑を常に内に抱えながら、鬱屈した成長期を経て暗澹たる社会で暮らしていくことを強いられる。

 影響は、ウクライナやロシアにとどまらない。強権支配体制下の各国内で、また国と国との関係において、法を無視した振る舞いが増えるだろう。違法・無道な行為は既に、大した犠牲を払わないままウクライナを屈服させたという「成功」の証しを得ている。プーチンの「成功」をうらやむ者たちは、身をさいなむ不安を解消し、自己の利益を確保し、自身の立場を万全のものとするため、武力で国境を犯し、他国や他者を屈従させることをいとわなくなるだろう。

 さらに「プーチン後」の強権体制の国で生まれた子供たちは、ウクライナやロシアの子供たちと同じ経験を経て大人になっていく。私たちにとっての常識は、もはや彼らの常識ではなく、市民的自由は国家に従属し、国境の神聖性は武力によって相対化されている。

 私たちは、こうした子供たちが不幸であることを知っている。暴力を通じた少数派の抑圧が自由を窒息せしめ、ひいては個人の幸福を打ち砕くことを知っている。私たちは、一国の政治指導者の居邸前で堂々とその指導者を批判する自由や、自分の考えを表明する自由や、自分の生きる道を自分で選択できる自由を、当たり前のものとして大切にしている。既存の秩序を維持するというのは、こうした常識が常識として通用する未来を保証することと同義だ。

 「ウクライナ早期降伏論」を推奨したテレビプロデューサーのテリー伊藤氏は、「ウクライナの人たちの命を助けたい」「今リアルな状況だと、ウクライナは勝てない」と述べたという。今この時の犠牲、今この瞬間の死をいかに少なくするかが最も重要ではないかという問い掛けであり、だからこそ運命に抗うウクライナの人々の勇気の帰結を、戦局に大きな影響を与え得ない「無駄死に」と形容できたのだ。 

 ウクライナの人々は今、国を守り、同胞を救うために戦っている。恐らく、彼らの眼中に「未来」はない。彼らがロシア軍の戦車という形で実体化した現実に押し潰され、武器を置くなら、その意思を尊重し、その傷を癒やす手助けをすべきだ。

 しかし、彼らが戦い続ける限り、私たちにとって彼らの戦いの意味はまさに「未来」にある。日本にいる私たちは、ロシアの侵攻で子を失った母親の涙を思う時、わが息子、わが娘、次の世代の明日にも考えをめぐらせる必要がある。

 「遠くの国」を襲っている悲劇は、未来に直結している。この悲劇を、不要であり、無益であり、悪であるとして拒むことは、強権支配を否定し、国家による侵略を認めないという意思を示すことに他ならない。ウクライナへの支援表明は、自由な未来を奪う暴挙は許さないという私たちの決意表明であることを、忘れてはならない。

 いま一度、ベーアボック氏の演説を引いて、筆を擱く。

 プーチンが始めた国際法に反する侵略戦争の結果、われわれの世界はこれまでとは違うものになった。だがわれわれが無力であるわけではない。この戦争はロシア国民によって行われている戦争ではない。これはプーチンの戦争だ。
 戦争と平和の間の選択、一方に侵略者、他方に地下鉄のトンネルに退避している子供たちがいて、どちらかを選択しなければならないということであれば、誰も中立であることなどできない 。
(2022年2月27日、ドイツ連邦議会にて、ベーアボック独外相)


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