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そう言えば、私って右手が不自由なんですよ、の話

自分の中ではすっかり定着してしまっていますが、そう言えば私って、右手が少し不自由なんです。

今回はその話をしましょう。

怪我の描写があります。閲覧注意。






それは2017年のことでした。
不注意により、右手の親指をザクッとやってしまったのです。

そりゃあもうザックリやってしまい、地面には血溜まりができました。神経も筋もやられ、骨にまで到達する深い傷です。

出血を必死になって止めて、人を呼んで近くの病院へ連れて行ってもらい、応急処置を。
緊急を要するとの判断で、麻酔なしで傷口を縫合しました。
とても痛かったのですが、ドーパミンが出ていたせいか、とてもハイテンションになっていたのを覚えています。
「おお、麻酔なしで縫われるというのは、こういう痛みなのだな」と、普段では体験できないことができてラッキー、なんて思ったりしていました。

周りの人はそれどころではなかったと思いますがね。

で、すぐに大きな病院に搬送され、即時手術となりました。

手術の前にもいろいろと検査や準備があり、ベッドに横たわるのですが、ドーパミンでわくわくが止まらない一方、失血のためにどんどん身体が寒くなっていくのを感じました。
「ああ、失血死とはこのような段階を経ていくのだな」と、自分のライフゲージがどんどん下がって行く様子を、冷静に分析して味わったりしていました。

「命は助かるかもだけど、指はダメかもしれないな。指がなくなったらどうやって暮らそう。義手のかっこいいやつを注文して、アニメの主人公みたいになれないかしら」

手術台に乗せられた私は、不謹慎ながらもそのような事を考えておりました。
おそらく、脳が全力で現実逃避をし、精神が崩壊するのを防いでいてくれたんだと思います。

そんな私を救うために、たくさんの人が動いてくれたり、心配してくれたり、祈ってくれたりしました。

とにかく、この怪我に関わっていただいた全ての人に感謝です。皆さんが必死になってこの指と命を繋ぎ止めてくれようと尽力してくださったおかげで、今の私があります。


そんなわけで二度にわたる大手術の結果、数ヶ月で無事に退院することができました。
手術は10時間に及んだといいます。
当の私は、全身麻酔のためにマスクをかけられ、3秒ほどで意識を失いました。
夢を見ていたような気がします。

看護師さんに肩を叩かれて目を覚ましましたが、視界はまだ夢と現実の区別がついておらず、羽根の生えた小さな可愛いパンダが空中をフヨフヨと漂っているのが見えました。

看護師さんに頼んで、「今から言うのを、何かにメモしておいて下さい。」と言って、見えている幻覚の様子をノートに記録してもらいました。

パンダの天使が二、三匹、くるくると輪を描いて、天空のお花畑に帰って行くような情景が見えていました。

しばらくすると、麻酔の効果が身体から消えて行くのが分かります。まず、背中や肩の感覚が戻り、次に二の腕、ひじ、というふうに感覚が復活して行きました。

と同時に、痛みも感じるようになって行きます。
歯磨き粉のチューブを押し出すような感じで、指先に向かって痛みの物質がぎゅーっと濃縮されていくのが分かりました。

その痛みが手首を超えて親指に達する頃には、ベッドの中でのたうち回るほどの痛みとなっていました。
腕はギプスで固定され、心臓の高さよりも下げてはいけないということで、ベッドに吊り具が設けられて半固定されておりましたので、もがくこともできず。

入院の前半は、そんな痛みとの対峙の連続でした。
夜中に痛み止めの点滴が切れて看護師さんを呼ぶと、

「この痛み止めって、ぶっちゃけ麻薬のようなものですから、あんまり出してあげられないんです。ごめんなさい」

と、痛み止めにも制限がかけられている状況でした。

痛みに耐えながら、入院中も退院後も私はリハビリをがんばりました。
術後数週間は、とにかく右手全体がパンパンに腫れ、全ての指がビクとも動きません。リハビリの先生が、力づくでその指に動きを与えてくれます。それがとにかく痛い。癒着した組織をベリベリと剥がすのですから。でも、そうしないと関節も固まって、右手が使い物にならなくなります。

とにかくリハビリは手を抜かず、一生懸命やりました。

肝心の親指は自力では動かせないので、ゴムと糸を使った装身具をはめてのリハビリでした。
数時間ごとにリハビリをしないと、腱と周りの組織が癒着して動かなくなってしまうとのことでしたので、睡眠の時以外はリハビリにつとめたものです。

慣れない左手でペンを持ち、1時間おきに震える文字でリハビリの記録をつけたのは良い思い出です。

↑リハビリのチェック表。努力の形跡です。

その裏に、うっすら透けているイラストが見えますね。
これです。↓


これらは、入院中に左手で描いたものです。

左手で文字を書くと、慣れないのでぷるぷる震えてうまく書けません。
じゃあ、どうせ震えるんなら、点描だったら描けるんじゃね?と思って試してみたれば、できました。上手でしょう?
これを才能と言うざます。

リハビリの合間の時間は、左手にペンを持って点描でのイラストを描くようになりました。若い看護師さんにそれをプレゼントしたりしました。
ナースステーションでそれは話題となり、噂を聞いた看護師さんたちが次々と私のベッドに来てはリクエストしてくれたりして、私は人生で最高にモテモテになったのでございます。

ああ、懐かしい。(笑)

私の入院していた病棟には、手足を無くした方がたくさんいました。
みんなそれぞれに辛い思いもあったと思いますが、どの方も前向きで、「泣いて足が生えてくるんなら泣くけど、生えてこないもんねー。だったら、早く義足の生活に慣れるように頑張らないとね」と、リハビリに励む方がいたりとか、とにかくみんな「生きるぞ!」っていう意志に溢れていたのが印象的でした。

私も、そんな皆さんの頑張る空気のおかげで、めげることなくリハビリに立ち向かうことができました。

しかし退院したあとが酷かった。

退院すれば、もう周りには仲間が居ません。
周りの人たちは心配はしてくれますが、痛みを分かち合うこともできないし、右手が使えない苦労や、使えないなりに頑張っている努力なども理解するのは難しいものでした。

退院後の私は、健常者の海にポーンと放り込まれ、精神的に孤独になっていったのです。

ギプスがとれても、右手首が固まって動きませんでした。それをほぐすリハビリがまた始まります。

手首が動くようになっても、右手で物を掴むことができません。
物をつかむための訓練が始まりました。

物をつかめるようになっても、箸を持ち上げることができません。
洋服のボタンをかけることができません。
ハサミももてません。
字も書けません。

私は昔から日記を書くのが好きだったので、ペンを持てない、字を書けないのはとても苦痛でした。

なので、工夫しました。

親指が動かなくとも、人差し指と中指でペンを挟み、それで文字を書く練習をはじめました。
うまく挟めないときは、樹脂粘土で自助具をつくり、それをペンと一体化させたり。

これ。
今でも使っております。腕の調子が悪いときは、肌がドス黒く見えます。

そんなふうにいろいろと工夫や努力を重ねて、怪我から7年が経ちました。
できなかったものを少しずつ克服し、今では箸も持てるし歯磨きもできる、着替えもできるし日記も書けるようになりました。
(ただし、ペンを握れる時間は30分から60分が限度です。休みながら、何時間もかけて日記を書くので、とても疲れます)

それでも一番辛かったのは、痛みよりも、周りから理解してもらえないということでしたね。

見た目は指も繋がっているし、傷跡も目立たなくなっています。けれど、中身はまだまだダメージが残っており、神経なんかはいまだに完全に復活していないし、関節もうまく曲がりません。
「このくらいの事ならできるだろう」とか、「こんな事もできないのか」と周りから言われることもたくさんありました。


ですが、この傷と痛みと不便さがあったからこそ、私の内面的なものがいろいろと成長できたのだと思います、というか、そう思えるようになりました。

以前の記事にも書きましたが、この怪我の苦しみを経ての一番の収穫は、「前世探究」との出会いです。

これはもう、私にしか分からないものだと思うんですが、本当に面白いんですよ。調べるほどに不思議なことが起こるし。

これは本当に、人生の宝と言えるんじゃないでしょうか。

人生を、ダイビングに例えることもできます。

海に潜って、海底に眠る宝をゲットして、また水面を目指すというのが、人生のサイクルだとします。

海底の宝に近づくほどに水圧が強くなるし、息も苦しくなります。
今、苦しい人生を生きている方は、もう少しで宝に手が届くところにいるのだと信じてみるのも良いかもしれませんね。

長くなりました。

私の右手は今日も限界を迎えたので、少し休ませましょう。

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