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GIGAスクール構想は誰のもの?


今回の経緯

今回の記事を書くことになった経緯を、僕の知っている範囲で記述しておこうと思います。
発端は以下のツイートです。

まあ、このツイートにも「きっかけ」はありまして、ある方が「国がやっていこう」と言っているのだからGIGAに参加しない教員はお金の無駄遣いだ、みたいなツイートをされていて(その方はもうツイートを消されていました)、それに反応したのが上記のツイートだったわけです。

そこから、僕はこんなツイートをしました。

これに対しても、ある方から「勘違いしてませんか?」という返事をいただいたので(その方も諸般の事情からツイートを消されていますが、こちらの方はDMをくださって説明してくださいました)、それへのお返事として、以下のリプライをしました。

さて、これに対して、坂本先生が以下のようなリプライをされたのが、今回の記事を書くキッカケです。

坂本先生は、文部科学省学校DX戦略アドバイザーなども務められる方なので、文科省の「血の滲むような努力」をご存知なのだと思います。
ただ、これだけだと、単なる坂本先生の「お気持ち表明」であり、反論としては弱いのではないかと感じたので、まずは僕の方から根拠を示して反論したいなと思い、本記事を書くことにしました。

文部科学相について

はじめに、文部科学省について書いていきたいと思います。
今回の僕のツイートもよくある「文科批判」の内容でしたが、「#教師のバトン」然り、最近の文科省の政策については、何かと批判されることが多いのが、現場にいる教員としての印象です。
 「理念は下ろすが、金と人は寄越さない」
これが現場にいる教員の多くの気持ちではないかなと予想しています(違うかもしれませんが)。

ここでは、東北大学大学院の青木栄一氏の著書『文部科学相』を参考にしながら、そんな文部科学相について検討していこうと思います。

まずは、以下の「的外れな指摘とは言えない」と著者も指摘する、文科省に対する一般的なイメージから見ていきましょう。

また、教育という国益に直結する分野を担当しているにもかかわらず、文科省は霞ヶ関の他府省の官僚たちや政治家から「三流官庁」とみなされている。少子高齢化、グローバル競争の激化といった社会の大きな変動に対応できない「守旧派」「抵抗勢力」であり、さらに政策議論にも弱いといわれ、1981年に設置された第二次臨時行政調査会で、文部次官経験者が国立大学の存廃をめぐって議論に窮し、涙を流した話が伝わっている。

同書 p4

1981年の、いわゆる「土光臨調」を取り上げなくても、「学級定数」をめぐり「35人学級」を希望する文科省に対して、「エビデンスを示せ」と財務省にやり込められてしまう文科省を見ても、その「政策議論」の弱さは痛切に感じてしまいます(萩生田さんの頑張りで、35人学級は実現しましたが)。

文科省の「弱さ」の原因は何でしょうか。
それはズバリ「主体性の無さ」です。つまり、文科省は「主体的に政策決定をすることが困難」な省庁なのです。
それを端的に表しているのが、故安倍晋三元首相による、コロナ禍の「全国一斉休校」でしょう。

きわめつけは、2020年2月末、コロナ禍対応のために安倍晋三首相が全国の学校に休校を要請したが、この決定過程に文科省は蚊帳の外だったことである。官邸主導の政策決定に文科省は反発したものの、結局は従わざるをえなかった。

同書 p5

一方で、文科省にはたくさんの「お金」があります。
その額は2019年度で「5.5兆円」にも上ります。しかし、その使途については、すでに決まっているものがほとんどです。
例えば、公立小中学校教員の給与の3分の1(毎年1.5兆円)や国立大学予算の多く(毎年1.1兆円)は、文科省がどうこうできるお金ではなく、文科省は右から左へ送るパイプのような役割しかしていません。
しかし、単なるパイプであっても、その「水量の強弱」はつけられるみたいで、青木氏によれば、文科省は地方自治体や国立大学には、さまざまな改革を突きつけて、お金の力で従わせている「内弁慶の外地蔵」ということも明らかになっているそうです。

さて、ここまで見てきた通り、文科省は「お金はあるが、権力なし」という構造と、しかし「お金のパイプ役」であることから、その下流にあたる地方自治体や国立大学に対しての「強制力」は持つという、歪な二面生が浮き彫りになりました。

そして、この構造ゆえに、他の省から狙われるというのが、僕の主張になります。

総務省の「光の道」について

次は、総務省です。
総務省といえば、かつての「内務省」であり、日本の「統治」に全般的に関わっていた強力な省庁でした。
その後、総務省になってさまざまな権力を奪われてしまってはいるものの、以前、霞ヶ関では強い部類に入る省庁なのではないでしょうか。

そんな総務省の「光の道」という施策は、あまり有名ではないかもしれません。ここでは、その施策を、新井紀子氏の著書『ほんとうにいいの?デジタル教科書』から読み解いていきましょう。

まずは同書の冒頭部分を引用します。

「デジタル教科書」という耳慣れない言葉が突然マスコミに登場したのは、二〇〇九年暮れのことである。発足して三ヶ月の民主党政権の下で、総務省からいわゆる「原口ビジョン」が発表され、その中に二〇一五年度までに「デジタル教科書をすべての小中学校全生徒に配備」するという文言があり、大きな波紋を呼んだ。

同書 p2

この事業は、民主党政権下での事業であり、その後、事業仕分けの影響で二年間で幕を閉じることにはなったのではあるが、その実証実験は続いており、その工程表に沿って文科省では「教科書のデジタル化」も進めているみたいです。

「デジタル教科書」という、教育的な文言が、どうして総務省の大臣から出てくるのか不思議に思う人も多いかもしれません。それを読み解く鍵が、総務省が進めたい「光の道」構想なのです。

総務省は、現在、「光の道」と呼ばれる政策を推進している。これは、「二〇一五年ごろを目処に超高速ブロードバンドの整備率を一〇〇%」にすることを目標とした政策である。
(中略)
おおよそ「光ファイバー」を用いて一般家庭や集合住宅にインターネット回線を引き込むことによって全家庭の超高速ブロードバンド化を達成しようという政策だと考えてよい。

同書 p52

光回線を全国まで広めたい総務省に対して、インターネットに接続している家庭のうち、光回線を利用しているのは、半分程度に留まっているみたいです。
その理由としては、「コスト」が挙げられます。つまり、まだ光回線が引かれていない地域全てに導入するとなると、3兆円以上の設備投資が必要になりますが、そんな予算を投じたところで、その経費が回収できる見込みなんてありません。僻地の人たちが数人使ったところで、利用料はたかが知れています。そんなものに民間の通信事業者は投資しません。

しかし、これが回収可能になる政策が、先述の「光の道」構想です。

総務省は交付金を設けて、過疎地や離島への整備費用の三分の一を補助します。残りを自治体と地域住民が負担して「公設」で光ファイバー網を設置し、それを民間の通信事業者に「貸与」して実際のサービスを担わせるという仕組みを考えているのです。

しかししかし、光ファイバー網を整備したところで「誰が使う」のでしょうか。

ここで参考資料にもある「光の道」構想を見ていただきたいのですが、ここには「医療・教育等へのICT活用」という文言があります。確かに、過疎地や僻地や離島にも「医療と教育」はあります。というか、この二つは、人が生きていくためには不可欠な「インフラ」です。つまり、「医療と教育」の利活用を推進すれば、総務省の「光の道」にかかる3兆円は回収可能であると、総務省は算段しているわけです。

最後に付け加えておきたいのが、ここには「様々な利権」が絡んでいるということです。

デジタル教科書を推進する最大の団体であるデジタル教科書教材協議会(通称DiTT)は、デジタル教育がカバーする市場規模は四兆円と試算して見せた上で、教育のデジタル化を経済成長の「起爆剤に」と主張している

同書 p65

結局、「子どものため」ではなくて、「経済成長のため」のデジタル化なのではないだろうか、と勘ぐりたくなるのは、まさに次で扱う経済産業省までもが「学校教育」への参画を画策している点からも窺い知れるのではないでしょうか。

経済産業省の「未来の教室」について

さて、総務省の次は、経済産業省です。
こちらは、大企業との関係が深い省庁であり、その権力は霞ヶ関でもかなり上位に来ることでしょう(もちろん、霞ヶ関最強省庁は「財務省」ですよ)。

そんな経済産業省は、最近、「学校教育」への関心が強いようです。
以下は、一見、文科省のページと見間違えてしまいそうですが、実は経済産業省の「未来の教室」のポータルサイトです。

このサイト、本当によくできています。
学校での利活用をしっかりと考えられており、ユーザーインターフェースも配慮されており、とても見やすい。

さらに、我々、教職員の最大の関心ごとでもある「学校における働き方改革」に関する特設ページまで作ってもらっている。前述の「頼りない文科省」に比べれば、権力もお金も主体性もある経済産業省のこの取り組みは「なんだかすごそう」と感じさせるには、十分ですね。

しかし、ここで「やったー、経済産業省も教育を支えてくれるんだ」と楽観してはいけません。経済産業省は「慈善団体」ではありません。その名が示す通り、経済産業省は「お金」になることに関心があるのです。

ここでは、教育とお金について、苅谷剛彦氏の著書『第四次産業革命と教育の未来』から考えていきましょう。

日本において第四次産業革命とICT教育の火付け役、推進役を担っているのが経済産業省です。これまで経済産業省は教育とほとんど無関係でしたが、第四次産業革命(Society5.0)への対応として二〇一六年に「教育産業室」を設置、二〇一八年に開設した「『未来の教室』とEdTech研究会」において教育改革の主要なエージェントになり、「GIGAスクール構想」(二〇一九年)を文部科学省、経済産業省、総務省の三省庁合同で実現させました。日本のICT教育を主導してきたのは、文部科学省よりも経済産業省と言ってよいでしょう。

同書 p41

では、どうして、経済産業省が「ICT教育を主導してきた」のでしょうか。それは、当然、そこに「お金の匂い」がしたからですね。

教育の「ビッグ・ビジネス」化について、苅谷氏は以下のように述べています。

第一は、公立学校の民営化と教育企業への委託です。公教育に費やされる経費の八割は人件費ですから、元来教育は収益が見込める事業ではありませんでした。しかし、IT技術が教育を収益性の高い事業へと変化させました。公立学校を民営化した教育企業、公立学校を業務委託された教育企業は、教員の多くを解雇してコンピュータに置き換え、多大な利益をあげています。第四次産業革命によるビッグ・データの集積とAIで制御された教育プログラムがこの転換を可能にしています。

同書 p22

この辺りの事情は、鈴木大佑著『崩壊するアメリカの公教育』にも詳しく書かれていますね。一部屋全てに「一人一台」の端末が用意され、子どもたちは一日中、コンピュータから教育プログラムを受けさせられる。こうしたチャーター校(チャーター=特別認可)が、アメリカでは莫大な利益を上げ続けている。教員への人件費がかからないのですから、これは紛れもなく「ビッグ・ビジネス」です。

さらに、ICT教育には様々な企業が参画することができます。

第二に、教育の「ビッグ・ビジネス」はグローバル・ネットワークを形成しています。「教育のグローバル・ネット」の調査研究を行ってきたロンドン大学のスティーブン・ボールは、ロンドンのある小学校のコンピュータで学んでいるサラという女の子の背後にどれだけの企業や団体がグローバル・ネットによって組織されているかを図示しています。この図をご覧いただければ、いかに多くの企業、団体、国際機関が巨大なネットワークを形成して収益をあげているかを知ることができるでしょう。このグローバル・ネットには、Google、Amazon、AppleやMicrosoftなどのIT企業、PearsonやMcGraw-Hill Education Inc` AcadeMediaなどの教育企業、Bill & Melinda Gates Foundation(B&MGF)などの公益財団、さらには世界銀行やユネスコ、国連などの国際機関までが連携して、巨大なグローバル・ネットを形成しています。

同書 p23

ちなみに、この前公表された「PISA」についても、主催はOECD(経済協力開発機構)であり、これも慈善団体ではなく「経済団体」です。実際、先ほどの引用にも登場した「Pearson」は、この「PISA」関連事業で莫大な利益を上げている企業であり、「PISA型学力向上プログラム」を様々な国に売ることで急成長しました。

PISAの順位で一喜一憂すること自体が、すでにPearsonの企業活動を応援することになっていたのです。

さて、ここまで話を転がせば、もう要点は見えてきたと思いますが、経済産業省は、「学校教育」の分野に「お金の匂い」を嗅ぎ取ったわけです。

実際、コロナ禍で緊急配備された「一人一台端末」は、そもそも廉価品であるにも関わらず、もう数年も「子どもに使わせて」いるためか、本校でも「故障」が続出しています。それらの「維持費」やら「メンテナンス費」やらが、これから少ない教育費を圧迫していくことは火を見るよりも明らかです。そして、圧迫された教育費の削減を求められた場合、削られるのは、現在のその「八割」を占める「人件費」であることは、疑いようもなく、公立学校から「先生」がいなくなり「コンピュータ」が教えるというディストピアさえ、目前かもしれないのです。

「まとめ」と「お気持ち表明」

まとめます。
お金はあるけど権力がない文科省が管轄している「学校教育」にICT化の波が一気に押し寄せたのは、そこに「お金の匂い」を嗅ぎ取った、総務省と経済産業省がいたからです。
そして、これをこのまま放置すれば、公立学校の学校教育から「教師」はいなくなり、子どもたちは「一人一台端末」による企業が開発した「教育プログラム」と学んでいくという未来さえ見えてきてしまうのです。

ちなみに、文科省がその「防波堤」として機能していることは、僕も承知しています。「守旧派」「抵抗勢力」という、他の省庁からレッテルこそ、まさに「防波堤」を示しているのでしょう。

故宇沢弘文氏が提唱した「社会的共通資本」という考えには、「教育などの分野は、経済や政治の論理に任せるのでなく、専門家による統治が良い」ということが述べられています。
それは、教育という制度には「変えてはならない」部分があるからだと思います。それは「人が人を教える」という部分です。これは、経済的に見れば「非合理」ですが、教育の専門家からすればアリなのです。

以上が、坂本先生への僕からの反論でした。
皆さんのご意見もお待ちしております。

ドラゴンクエストモンスターズ3にハマっている、めがね旦那より

参考文献

『文部科学省』 青木栄一著 中公新書 2021
『ほんとうにいいの?デジタル教科書』 新井紀子著 岩波ブックレットNo.859 2012
『第四次産業革命と教育の未来』 佐藤学著 岩波ブックレットNo.1045 2021
総務省「光の道」について

https://www.soumu.go.jp/soutsu/hokuriku/img/resarch/okunoto/2st/dara2-6.pdf

経済産業省「未来の教室」について