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新自由主義的教育政策の概観③


③安倍内閣(一次、二次を含める)

 安倍内閣では新保守主義的愛国心教育が教育政策に導入されていきました。一次内閣では愛国心や郷土愛などの文言が並ぶ改正教育基本法を制定しました。二次内閣では、私的諮問機関である「教育再生実行会議」を発足させて、道徳の教科化などを提言し、後に道徳は教科化されます。しかし、並行して新自由主義的教育政策にも力を入れています。教育バウチャー制度の導入を検討したり(導入は見送り)、全国学力学習状況調査の実施、習熟度別指導(いずれも一次内閣)などです。

 日本においては新保守主義と新自由主義には相互補完性が認められるというのが定説です。先程も引用した法学部教授である森裕城は新自由主義に関する共通理解として大筋で三点にまとめられ、その三点目として以下のように述べています。

 第3に、新自由主義には新保守主義との相互互換性が認められる。競争の進展に伴う諸問題(格差の拡大、社会的な連帯の弱体化など)に対して、新自由主義は、伝統・文化・道徳・家族・宗教の規範を復権させることで問題の解決を図ろうとする側面がある。

『新自由主義的教育改革の政治過程とその分析視角』 森裕城 2012

 なるほど、新自由主義の弱点を新保守主義で補うという考え方には納得してしまう部分も多いです。

 しかし、政治家が自身の政策を進めるために自身の政治理念(ここでは新保守主義)に矛盾をきたす政策(ここでは新自由主義)をするのかという部分に疑問を投げかける考えもあり(『新自由主義と愛国心教育』竹島博之 2011)、この辺りは教育政策相互の関係性を見極めるような力も必要だなと感じます。

 例えば、教育バウチャー制度を導入すれば地域の学校に競争原理が働き、新保守主義が目指す「地域の連帯」は失われていくでしょう。その矛盾点について竹島は、新自由主義的教育政策(学力向上)はPISA2003の結果を受けた「学力低下論争(PISAショック)」という社会情勢から、また新保守主義的教育政策(道徳や愛国心の涵養)には当時社会的に注目されていた過激な少年犯罪の増加(「佐賀バスジャック事件」や「豊川市主婦殺人事件」)という社会情勢からそれぞれ行われたので、それらはそのまま相互に矛盾を抱えることになったと竹島は分析しています。

全国学力・学習状況調査

 さて、安倍内閣が始めた新自由主義的教育政策の中でも全国学力・学習状況調査は現在も毎年行われているものです。
 この調査の問題点は明らかで「全国の教育実践を単一のモノサシで測った」ということです。「単一のモノサシで測ることができる」ということは「比べられる」ということになり、それは「競争」に繋がります。競争により学力向上を図るというのは多くの日本人が今でも信じている手法でしょうが、それについては内田樹が警鐘を鳴らしています。

 今の日本では、学力向上は「競争」を通じて達成される、と上から下までみんな信じています。たしかに、個人の学力は競争を通じて向上させることができます。けれども、「競争に勝つ」ことのたいせつさだけを教え込んでいたら、こどもはいずれ「自分ひとりが相対的に有能で、あとは自分より無能である状態」を理想とするようになります。

「相対的に」というのが味噌です。
「今ここで競争に勝つ」という点に限れば、自分の学力を上げることと、競争相手の学力を下げることは、結果的に同じことだからです。
(中略)競争を通じて学力の向上を果たそうとする教育戦略は、結果的に全員が全員の足を引っ張り合うという『蜘蛛の糸』的状況に行き着きます。

『街場の教育論』 内田樹 ミシマ社 2008

 そもそも子どもたちは「学力調査」という競争にあまり関心が無いかもしれません。むしろ、そこに熱を入れているのはマスメディアです。

 文科省自体は調査の結果を都道府県毎に順位付けして報道発表をしていませんが、それをマスメディアがおもしろおかしく、ご丁寧に都道府県毎に順位を出して発表しています(『文部科学省』青木栄一 2020)。それに一喜一憂するのは委員会や管理職です。もちろん、委員会だって議員からの圧力があるかもしれないし、管理職も地域やら何やらの圧力があるかもしれません。テストの結果を自校のホームページに公開して、それをもって教育の説明責任だとする空気はたしかに存在します。そんなことになってくると、学校側も「点数が過去より上がっているか」ばかりに意識が向きます。

 そうして現場は「過去問対策をしよう」となってしまうのです。実際、僕の過去の勤務校でも週に一時間、5年生を対象に「学力調査の過去問を勉強する時間」を作って子どもたちにやらせていました。効果はみるみる出てきました。その指導のおかげかはわかりませんが、翌年に彼らは全国平均を大きく超える点数を取ることができ、管理職はご満悦だったそうです。保護者の中には学校ホームページを見て近隣校の学力調査の結果を比べることもあるでしょう。自分の子供が六年間通うことになる小学校です。それくらい慎重になっても当然のことです。ただ、その点数にどれだけの教育的効果があるのかはわかりませんが。

 学力という見えない力をどのように子どもたちに付けたらいいのか。これについては非常に難しい問題です。でも、難しいし測りにくいからといって、その問題から目を背け、子どもたちの学力を「学力調査」の結果をもって判断してしまっていいのでしょうか。子どもたちの学力を「学力調査で点数が取れる力」に矮小化してしまっていいのでしょうか。それは、見かけ上「学力が上がった」と感じさせるかもしれませんが、その一方で、別の大切な力を失わせている活動にはなっていないでしょうか。そうやって過去問読解に勤しんだ学校は数多くあると聞きます。これが「単一のモノサシで測ること」の弊害です。

 さらに言えば、このような学力調査における弊害はこれが初めてではありません。1960年代には「全国中学校一斉学力調査」が行われていましたが、今回と同様、学校間や地域間での競争が激化し、教職員組合の反対運動の激化により1966年に中止となりました。過去の過ちから学んでいない教育政策により、今も振り回されているのは現場の先生と子どもたちです。このままでは目先の「学力調査の結果」によって「過去問対策」ばかりをやらされた結果、日本中の子どもたちの「測れない部分の学力」は底なしに下がっていってしまうのかもしれません。