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教育の3つの機能

教育には3つの機能があるという論を提出したのは、教育哲学者のガート・ビースタである。この概念は、教育における「主体」について考える際にも便利であるので、ここでその概念を整理しておきたい。
これについてビースタは以下のように述べている。

教育のねらいや目的の議論のための枠組みを発展させる一つの方法は、教育システムの果たしている実際の機能から出発することである。私は、教育が一般的に、三つの異なった(しかし関連する)機能を果たしていると提案したい。私はそれを教育の資格化、社会化、主体化の機能として述べるつもりである。

『よい教育とは何か』 ガートビースタ著 藤井啓之・玉木博章訳 白澤社発行 現代書館発売
2016

教育という言葉自体は、当然、「学校教育」以外の様々な教育を含むであろう。ただ、本邦においての「教育論議」は専ら「学校教育」に関してであることが多いので(筆者が学校教員ということもあるだろう)、ここでも、特に言明しない時は、教育は「学校教育」を示すものにすることを断っておく。

さて、ビースタの述べる、教育の3つの機能(資格化、社会化、主体化)について、それぞれ、彼の言説を引用してみよう。

まずは、資格化である。
これはざっくり言えば「知識・技能」であるという説明がされることが多い。
では、ビースタの著書から引用する。

教育の ー学校、他の教育施設のー 主要な機能は、子どもたち、若者、そして大人の資格化にある。資格化は、彼らに、知識、技能、理解を提供することに見出されるし、しばしば、彼らが「何かをする」こと ーとても具体的なもの(特定の仕事や職業のための訓練、あるいは特定の技能やテクニックの訓練の場合のような)からはるかに一般的なもの(近代文化への導入、あるいは生活技術の教授、等々のような)にまで及ぶ「すること」ー を可能にするような性質や判断の形式を提供することにも見いだされる。資格化の機能は、疑いなく、組織された教育の主要な機能の一つであり、そもそも公的資金によって教育を行なう重要な理論的根拠を構成している。

同書 p35

これは、高度経済成長期に「企業に人生を捧げるサラリーマン」が企業側から要請され、それを学校教育で育てたように、またもう少し遡れば、富国強兵の時代に、欧米の文化を取り入れるために若者たちを教育したことからも、わかる。公教育は、その国に求められる人間を育てるという面を否定することはできないであろう。そして、それは教育の機能である「資格化」である程度の説明ができる。

次は、社会化である。
これは、社会という秩序に子どもたちを「適応させる」と考えていいだろう。このように述べてしまうと、否定的に考える人も多いかもしれないが、ある程度の「共通了解」を持つ集団を「社会」と呼ぶ以上、この機能を否定することは難しい。

例えば、中国では「ゴミを道に捨てる人」が一定数いるらしい。これは、「道のゴミを拾う」という仕事をする人がいて、その人たちの仕事のために「捨てる」という意味もあるらしいのだが、この辺りの感覚は、我々日本人には理解し難いものがある。

では、ビースタの説明を引用しよう。

社会化の機能は、教育を通して、我々が特定の社会的、文化的、政治的な「秩序(order)」の一部になる多くの方法と関係している。しばしば、社会化は教育機関によって積極的に追求される。たとえば、ある規範や価値の伝達に関して、特定の文化的、宗教的伝統の継承に関して、あるいは、職業的社会化の目的で。しかし、もし、社会化が教育プログラムや教育実践の明示的なねらいではないとしても、ヒドゥン(隠れた)カリキュラムの研究によって示されてきたように、教育は依然として社会化の機能を持つだろう。その社会化の機能を通して、教育は、個人を既存の行動様式や存在様式にはめ込んでいる。この方法で、教育は、文化と伝統の継承において ー 望ましい面と望ましからざる面との両面において ー 重要な役割を演じている。

同書 p36

「日本人的」であると我々が感じる瞬間はどんな時であろうか。私が思い浮かべるのは、「自動販売機が街中にあること」や「大災害が起きても取り乱さない」である。

例えば、日本には、自動販売機が至る所にあることに驚く人たちがいることを、我々日本人はあまり知らない。ある国の人は、「私の国で、自動販売機なんか置いたら、すぐに強盗が機械ごと盗んでいきますよ」と感想を述べたようなエピソードはよくある。日本では、手荷物を地面に置いても置き引きにある心配はないが、私の弟はある国で同じことをしたら一瞬で置き引きにあい、靴下にしまい込んでいたパスポートと少額の現金がなかったらどうなっていたかと回想していた。

例えば、東日本大震災の時に、被災者が列をなして給水所に並んでいる様子が、各国メディアで盛んに報じられた。「これだけのカタストロフが起きても、なお秩序を失わない国民性が素晴らしい」ということらしい。

いずれの例も、学校教育が果たしてきた「社会化」の事例であることを疑うことは難しいだろう。「人のモノは触りません」「列をなして、順番を待つ」は、どちらも低学年を中心に耳にタコができるほど指導されてきているはずだ。

こうして、学校は「教育実践の明示的なねらいではない」としても、いろいろな研究が明らかにしているように、子どもたちの「社会化」には影響力を持っている(これをヒドゥンカリキュラム)という。

さて、資格化と社会化については、多くの人が感覚的に理解しやすいだろう。この二つの機能については、意識されることが多いからである。では、最後の機能は何か。それは、「主体化」である。これについては、過去にも述べたことがあるので、お時間がある人は、そちらも呼んでもらいたい。

ビースタは、主体化について以下のように述べている。

しかしながら、教育は単に資格化や社会化に貢献するのみでなく、個性化、あるいは、私の好みでは主体化 ー 主体になるプロセス(第4章、第5章も参照) ー と呼んでいるものにも影響を与える。主体化の機能は、おそらく社会化の機能の反意語として、もっともよく理解されるかもしれない。主体化の機能は、まさに「新参者」を既存の秩序にはめ込むことを表しているのではなく、そのような秩序からの独立を暗示するあり方や、個人がより包括的な秩序のひとつの単なる「標本」ではないようなあり方のことを表している。

同書 p36、37

一読しても、理解が難しいかもしれない。ここで抑えて欲しい点は、主体化は「社会化の反意語」であるという点だ。つまり、既存の社会に「適応」するような人間を育成することを「社会化」と呼ぶなら、主体化は、まさにその逆なのである。主体化された人ををビースタは「新参者」と呼び、社会に適応された人を「標本」と呼んでいる点も興味深い。

この概念は、教育基本法からも読み取れる。

(教育の目的)
第一条 教育は,人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法

この目的にある「形成者」という文言の意味を考えれば、学校の先生の口癖である「社会に出たら困るわよ」という言葉の浅はかさを感じることができるだろう。子どもたちは、「既存の社会に適応する」ことよりも、「社会を新しく形成する」ことが、教育基本法には求められているのだ。

主体化については、その答えが明示しにくい。何を持って「主体化」が達成されるのかについては、「明示的な言葉」では示され得ない。しかし、このように明示的な解答を濁してしまうと、「では、何でもいいのか」となってしまう方もいるだろう。
過去に日本でも「児童中心主義」という考え方とともに、「子どもが活動さえすれば何でもいい」という教育実践を「活動あって学びなし」とか「這い回る経験主義」として批判されたこともある。
主体化の持つ、そのような難しさについて、ビースタは以下のように述べている。

しかし子ども中心の教育や生徒中心の教育の極端な形式は、出現するものは何であれ誰であれ単純に受け入れていたのに対して、私は何が、そして誰が出現するのかについて判断する必要性を強調する。私の唯一のポイントは、この判断は出現する出来事の後に行われるべきであって、前にではない、ということだ。当然、これにはリスクが伴うが、ここでの問題は、このリスクをなくすべきかどうかではない。そうではなくて問題は、新たなヒトラーや新たなポルポトが存在するようになることを防ぐために、新たなマザー・テレサや新たなキング牧師や新たなネルソン・マンデラが出現する可能性を我々が同様に失うべきかどうかということだ。それは分かりきったことである ー そしてまたもちろん凄まじく複雑でもある。

同書 p120

かの天才アインシュタインは、簡単な計算をするのもめんどくさがったらしい。以下のツイートで示したような子も、「資格化」や「社会化」の名目で排除されてしまうかもしれないが、それは同時に「新たなアインシュタイン」の出現を排除してしまうことにもつながるかもしれないと考えるのが、「主体化」の機能なのである。


さて、このように「教育の機能」を整理してみることで、「教育の見え方」が変わるはずである。ビースタの狙いもここにある。教育議論を深めるためには、「新しい視座」が必要であり、このビースタの概念がそれに寄与することを願う。