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広田照幸先生についてと、教師のあり方の話など

広田照幸先生という教育社会学者で有名な方がいます。
広田先生の本は読みやすいものが多く、かつ他の方とは違う視点で書かれているのでおすすめです。以下におすすめの2冊をあげておきます。

前者は「プリマー新書」なので「中高生向け」ですので、かなり読みやすい。しかし、内容は結構尖っていて、現場の先生は一読の価値ありです。「教育とは何か」について、いやでも考えさせられます。

後者は「教育学を学ぶ学生向け」ですが、こちらも読みやすい。広田先生本人は「私は教育学者としてオーソドックスな位置にいない」と「あとがき」でも言っているように、教育学についての概観を執筆することに対して難色を示していたそうですが、だからこそ、他の教育学の教科書とは違った読み味になっています。

先日、内田樹先生主催の凱風館ゼミの新年会で「知性を持っている人に師事したい」という話題があって興味深かったのですが、内田先生や広田先生など、「自分が素直にすごい」と思える「知性を持った方」を見つけることができるのは幸せだなと感じます。

もちろん、この世界にはたくさんの人がいて、その中にはたくさんの知性を持った方がいらっしゃるのでしょうけど、人間の人生は有限ですので、すべての人を吟味することは物理的に不可能です。だから、その中で「この人はすごいなぁ」という人に出会えたら、それは「キセキ」だなと感じます(GReeeeNかよ)。


教師には「教育学の素養」が不可欠です。それは、教師こそが「教育実践の主体」だからです。こう書くと、「いやいや学習の主体は子どもだろ」という反論が来そうです。はい、確かに「学習の主体は子ども」です。でも、僕が言っているのは「教育実践の主体」の話であり、それは子どもでなく教師なのです。

教育とは、広田先生の定義を借りれば、

「教育とは、誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである。」

ということになります。

この定義からわかるように、「教育」には登場人物が「2人以上」いることになります。「教える者」と「教わる者(たち)」です。だから、教育を語る言説は必然的に「関係性」を語る言説になります。教育は一人では成立しない。ここは非常に大切な点です。

教育哲学者であるガート・ビースタは現在の学校教育の問題点として「教育の学習化」を挙げています。

つまり、学習はその言説が「個別化」「個人化」しがちなのです。実際、学習は教育と異なり、「一人」でも成立します。「タクシーを停めるために、手を挙げる」というのは、誰かに教えられなくても、そうしている人を何度か見れば、学習することができますね。

他にも、つまらない授業中に、本を読んだら注意されるけど、先生の方を見ながら別のことを考えてやり過ごせば注意されない、ということを生徒が学ぶこともありますね。これも学習ですが、教師が意図しないことを学習している例です。

教育を語る言説の多くが「学習化」してしまうと、教育で重視されるべき「関係性」の要素が希薄になってしまいます。そうなるとどんな弊害があるのでしょうか。ここでは一つの例をあげてみましょう。

教育技術法則化運動というのが、過去にありました。現在はTOSSの名称で知られています。これは、教育技術には優れた効果があるものがあり、それを共有して蓄積していけば、教育実践も豊かになるという趣旨でした。これ自体は素晴らしい考えたと思います。しかし、問題点もありました。

それは教育を語る言説が「技術論」中心になると、教師が「何を言う」とか「何をさせる」ばかりに焦点が当たってしまいます。しかも、それらの「技術論」は「成功事例」が伴って喧伝されるわけですから(失敗事例を伝える人はいません)、うまくいかないのは「子どもたちが悪い」という、他責思考になりがちです。

TOSSの実践報告は、実践の細部に渡って報告されています。それは「再現性」を重視しているからです。つまり「どの教室でも実現できる教育実践」を目指したわけですね。教育技術法則化運動の創始者である向山洋一氏は、昭和の偉大な教育実践家である斎藤喜博氏の実践について不満を持っていました。それは、斎藤氏の実践報告が「あまりに文学的」であったため「再現性が低い」という点への不満でした。

斎藤喜博氏の実践報告は今でも数多くあります。わずかな指導で学級の児童全員が跳び箱を跳べるようになったとか、合唱の歌声が劇的に変化したとか、国語で高いレベルの読解をさせたとか、その例を挙げればキリがありません。しかも、斎藤喜博氏は、校長の立場でありながら、様々な学級に「飛び込み」で授業をして、効果をあげたというのですから、その手腕は想像を絶します。

しかし、「斎藤喜博式教育実践」的な形で、その技術が継承されることはありませんでした。だからこそ、向山氏は「再現性」にこだわったわけです。

しかし、その結果として教育の持つ「関係性」の側面が薄くなったという点は否めないわけです。斎藤喜博氏の実践報告からは、斎藤氏と児童たちとの関係性がありありと見えてきます。それが「具体個別的」であり「再現性」は低いかもしれませんが、教育の目指すべき姿は感じることができます。確かに、そこには「人間」を感じる。

技術論自体は悪いわけはありません。しかし、教育の持つ「属人的な要素」もまた大切だと思うのです。

以前、TwitterでTOSSについて議論をしたときに興味深いことがありました。

僕は過去の経験から、TOSS信奉者は「独善的になりがちである」という感想を持っていました。それは、技術論に傾倒しすぎた弊害であるというのが、僕の認識です。それに対して、ある方が「TOSSに行き着く方は、少なからず現場での失敗経験があり、藁にもすがる思いでTOSSに辿り着いたという経緯がある。」とおっしゃられました。

なるほど、と思いました。

先述の通り、技術論には確かに説得力があります。再現性もある程度はあるのでしょう。しかしそれだけではうまくいきません。教育はナマモノなのです。

だから、結局はそれを扱う教師の「バランス感覚」的なものも同時に鍛えていかないといけないわけで、そういう意味で、僕は広田照幸先生の著書を読むことを薦めるわけです。