第二十四集:乳母日傘
「大丈夫ですか、翠琅さん」
わたしは帰りの馬車の中で変身を解き、面をとると、悔しくて涙が流れてきた。
「わたしは馬鹿です。なぜ、今になって気付くのか」
指先が震える。
「刑部尚書ということは、あいつが父を牢に入れたってことです。拷問し、毒薬を飲ませた。母に粗悪な自白剤を飲ませたのも、あいつだ。いっそ、殺してしまえばよかった。実験結果の帳簿なら、殺した後に屋敷中を探せばよかったんだ」
感情が高ぶり、仙力が渦を巻く。
「我慢して下さい。これは長期戦です。もちろん、戦争になったら、少なくともわたくしと兄上は翠琅さんのために戦いますが……。聖域にいる片割れのお義兄様はどうなさるおつもりですか? 二度と現世で暮らせなくなりますよ」
「玲瓏兄さん……」
皇弟弥王世子長子、簫 玲瓏。妖精族伝統の〈取り替え子〉によるわたしの片割れであり、父と母が護ろうと救った命。
この世で唯一、弥王府と梅寧軍を立て直せる、未来の太師。
「すみませんでした」
わたしは深呼吸を繰り返し、心を落ち着けた。
「ご両親には話すのですか?」
「いえ。ここからはもう、わたしと、玲瓏兄さんの戦いです」
わたしはスペンサーの方を向き、目線を合わせた。
「ようやく、ようやく始まるのだと、玲瓏兄さんに伝えてきます」
「聖域に行くのですね」
「はい」
「お帰りはいつ頃ですか?」
「明後日には帰ってきます。仕事もありますしね」
「ふふふ。銀耀でお待ちしております」
わたしは馬車から飛び出たと同時に大仙針に跨り、一番近い池か湖へと向かった。
涙の痕に風が当たり、冷たい。
「一番近いのは……、碧霄湖か」
太古の昔、とある修行僧が空腹で倒れた際、目の前に広がっているのが青空なのか湖なのかわからなくなったことからそう呼ばれるようになった碧霄湖。
水深が深く、冷たく、澄んでいる。
多元世界への入り口としては最適な場所だ。
わたしは湖の畔に降り立つと、大仙針で水面を突いた。
すると、波紋がいくつか出たあと、水面が完全な鏡面に変化した。
わたしは湖に飛び込んだ。次の瞬間、立っていたのは九天玄女が統べる聖域。
「相変わらず、美しい」
五色の唐衣がはためくように、風は光を帯び、涼やかな空気の中を泳ぐ。
空を駆ける魚はその鱗に季節の花々の色を反射し、雲の合間を縫っていく。
清らかな水が湧き、流れとなって音を運ぶ。
家々から立ち昇る営みの炎と煙はあたたかく、やがてその灰は夜空を彩る星辰となる。
澄み渡る蒼穹に月の船が揺蕩う。愛しき金烏の輝きに身を委ね、幾星霜を見つめ合う。
玉響に訪れる、邂逅を望みながら。
「翠琅様、おかえりなさいませ」
わたしに気づいた住人たちが、足を止めては挨拶をしてくれる。
「ただいま」
わたしには聖域に血のつながった家族はいない。
崑崙山に置き去りにされていたわたしを、中原の赫界を統べる西王母が拾ってくれたのだ。
その後、すぐに九天玄女の養子となった。全部で八人いる養子の中の一人だ。
だから選ばれたのだ。〈取り替え子〉に。
わたしについてわかっているのは、仙子族であるということと、年齢、性別だけ。
なぜ生まれつき髪が朱いのかは、一応、大隔世遺伝によるものではないかと、仙子族の医師には言われている。
仙子族には、暖色の髪色の者はそうそう生まれてこないから、それ以外の説明がつかないらしい。
妖精女王の養子ともなれば、それなりの地位はあるが、わたしは〈取り替え子〉となったことで、聖域内でも有名なのだ。
(玲瓏兄さん、家にいるかな)
家は王宮の敷地内に建っている、金衣公子宮という建物だ。
(まずは義母上に挨拶だ)
わたしは繊細な刺繍が施された香染の深衣に着替え、上に艶やかな絹で織られた麴塵の衣を羽織った。
長く大きな階段を上り、妖精女王が政務を行う朝堂へ向かった。
一番上に着くと、外に控えていた太監に来たことを告げ、九天玄女に伝えに行ってもらった。
少し待つと名前を呼ばれたので中に入り、叩頭した。
「女王陛下に拝謁いたします」
「楽にしなさい」
「ありがとうございます」
立ち上がり、玉座の方を見ると、何年たってもその天香桂花な姿は変わらない義母が座っていた。
「久しぶりね、翠琅」
「お久しぶりです、母上」
「蘭麝に会ったとか。変身できるようになったのでしょう? 見せてくれる?」
「はい」
わたしは螢惑の姿に変身して見せた。
「ほう……。蘭麝は少々おかしなところがある者ですが、やはり美的感覚は素晴らしい。似合っていますよ」
「身に余るお言葉、ありがとうございます」
「どのくらい滞在できるのですか」
わたしは変身を解きながら答えた。
「明後日の朝には現世に戻らねばなりません」
「そうですか……。またいつでも来なさい。待っています」
「はい、母上」
「玲瓏は金衣公子宮にいますからね」
「兄上にも挨拶してまいります」
「挨拶だけで済むのかしら」
「……母上には隠し事は出来ません」
「あまり危険なことはしないように。人間のお母上も心配するでしょう」
「気を付けます。では、失礼いたします」
わたしは胸の前で、左手の平を右手の甲にそわせるように両手を合わせ、頭を下げ、退出した。
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