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#映画感想文183『アフター・ヤン』(2022)

映画『アフター・ヤン(原題:After Yang)』を映画館で観てきた。

監督・脚本はコゴナダ、主演はコリン・ファレル、ほかにジョディ・ターナー=スミス、ジャスティン・H・ミン、マレア・エマ・チャンドラウィジャヤ、ヘイリー・ルー・リチャードソンが出演している。

2022年製作、96分のアメリカ映画で、A24の作品でもある。

原作はアレクサンダー・ワインスタインの短編小説「Saying Goodbye to Yang」だという。

舞台は近未来のアメリカで、三人家族にテクノ(人型ロボット)が一緒に暮らしている。夫のジェイクは中国茶の茶葉の販売店を経営。妻のカイラはキャリアウーマンで、おそらく旦那より高収入で、かなり忙しそうに働いている。養女のミカは小学生で、中国系である。この家族は、父親が白人で、母親が黒人で、養女がアジア系で、異なる人種の家族である。人型ロボットのヤンは文化テクノであるため、ナニーのように身の回りの世話もするが肉体労働が仕事のメインではない。ミカに中国文化を伝えることが、その使命なのである。彼の頭には、中国文化のデータが詰まっている。もちろん、中国語も話す。

ある日、四人でダンスバトルに参加していると、ヤンが壊れてしまう。

ダンスバトルのシーンは、オープニングでもあるので、公開されている。このシーンはとても楽しい。任天堂あたりが作りそうな健全なゲームである。

ヤンが壊れてしまい、ミカはショックを受ける。ジェイクはヤンの修理のため、カスタマーセンターや修理できる知人のところに行ったり、研究者に会ったりと、東奔西走して結構、頑張る。ただ、再起動はできない。修理はできないので、販売元に下取りしてもらって新型を買えばいい、などというアドバイスをされたりする。テクノはしょせんロボット、機械なので、スマートフォンと同じ扱いなのだ。その寒々しさも、きちんと描かれている。

そして、家族の誰も知らなかったヤンの性能(仕様)が徐々に明らかになっていく。購入者のプライバシー保護のため、禁止された機能であるメモリーバンクという記憶装置が付いていた。メモリーバンクは一日にあった数秒の出来事をテクノ自身が選んで記憶しておくことができる。ヤンは何を記録していたのか。それをジェイクと妻のカイラが知る物語なのである。『アフター・ヤン』とは、ヤン亡きあとの世界という意味で、残念ながら、ヤンの修理はできない。

ヤンは工場出荷の新品ではなく、中古として、個人商店で買ったものである。ジェイクは、店員から「ヤンは前の持ち主のところから一週間で売りに出されてしまったほぼ新品」と聞いて購入した。実際のヤンは、ちゃんとした中古で、ほかの家族との記録(記憶)が残されていた。前の家族にいた優しいあの人は、今は近所に住むクローンの女の子のオリジナルだった。以前にも会ったことがある彼女と、クローンの女の子の映像が残っている。これは恋なのか。いや、恋と呼ぶには至らないが、忘れたくなかったことなのだ。ヤンは自身の記憶の中にある「懐かしさ」を追いかけていた。彼がそれに対して、自覚的だったかどうかはわからない。

(この近未来の世界では、人型ロボットもいるし、クローン人間もいる。ジェイクはクローン嫌いとして知られている。ロボットはよくても人間のコピーには嫌悪感を示す。こういうことも起こり得るだろう。わたしも人間のコピーには抵抗を感じるかもしれない)

もちろん、今の家族(ジェイク、カイラ、ミカ)との記憶も残されている。カイラが「死を新しい物事のはじまりだと思いたい」と語ると、ヤンは「正直に言えば、死のあとが無であっても構わない」と率直に述べる。生きている人間はどこまでも意味を求める。何かに失敗すれば「この経験は無意味だった」と吐き捨てるように言う。しかし、生きることにそれほど意味はないし、死んで残るのは「無」なのである。そのことをヤンは知っていた。それは中国の思想家の言葉でもあるのか、ヤン自身が感じて話したことなのかはわからない。

しかし、ジェイクがお茶を淹れるそばにいて、茶葉が浮かぶさまの美しさを知っているヤンが、単なるロボットだとは思えなくなってくる。人間は、いつも人間を基準にして考え、自らの感情を投影して、その中に人間性を見つけようとする。病的なまでに。

終盤、娘のミカが中国語で、ヤンに語りかけるシーンがある。字幕がないので、わたしは「对不起(ごめんね)」しか聞こえなかったのだけれど、中国語がわかる人はもっと楽しめるだろう。わからないこと、それ自体が異文化の醍醐味であるとも思う。

アメリカに移民としてやってきたアジア人の葛藤も、隠されたもう一つのテーマだったと思われる。コゴナダ監督は韓国系で、祖父母や父親は日本で暮らしていた時期もあるのだという。本作は、監督とヤンは韓国系、ミカは中国系で、曲などは日本のものが使われているので、もしかしたら、東アジア人に一番ぐっとくる映画なのかもしれない。

エンディングでは、岩井俊二監督の2001年の映画『リリイ・シュシュのすべて』の『glide(グライド)』のカバー曲が使われているのだが、あまりの小林武史っぷりに驚く。彼の曲はそれだけ手癖が強い、というか、作家性が色濃い。

映画のテーマ曲は坂本龍一で、その名もずばり『メモリーバンク』である。

コゴナダ監督のインタビューも興味深かった。

―『アフター・ヤン』では、ジェイク(コリン・ファレル)が茶葉を販売していたり、夫婦でラーメンを食べる場面があったりするなど、白人男性・黒人女性の夫婦がアジア文化を好んでいました。監督のアジアに対する視線が反映されているものなのでしょうか?

コゴナダ:そうですね。私は人生の大半をアメリカで過ごしましたが、アメリカでは「アジア的なもの」というのは、ある種の「商品」のような位置づけになっていると思います。「アジアらしさ」という曖昧な概念は、具体的なアジア人の生活、アジア人がつくりあげた文化を指すわけでなく、「つくりもの」のようにもなっています。

https://www.cinra.net/article/202210-afteryang_ymmtscl

文化とは、何なのだろう。売り買いできるもの、理解できるもの、理解できないもの、差別の原因になったりもするし、ちやほやされたりもする。

『アフター・ヤン』の世界は、シナリオだけでなく、光と影、映像自体も、ものすごく美しかった。コゴナダ監督は小津安二郎からの影響を受けていると公言しているとおり、市井の人の日常の営みにおけるやりとりが積み重なっていく。ヤンの記録(記憶)は断片的だが、わたしたち人間はその断片すら、きれいさっぱり忘れてしまったりする。そして、ヤンの記憶に家族の思い出を見出し、ヤンに家族への愛があったのだと解釈しようとする。やはり、人間中心主義から逃れられない。その一方で、ロボットなんだから、感情なんてあるわけがない、という考えにも揺れてしまう。観客もジェイクとカイラと同じことを考えてしまう。

物語が大きく展開していく映画ではないのだけれど、どうしようもない物悲しさの前に立ち尽くす人間と、「いや、でも、ロボットが壊れただけだよ」と考えてしまう人間の揺らぎが繰り返される。でも、生物以外の死を悲しんだっていいではないか、という気もしてきた。

SONYのペットロボットであるAIBOが動かなくなったとき、みんな悲しんでいたではないか。そして、家族なのにカスタマーサポート終わらせるってどういう了見なんだ、と問題になっていたではないか。

コゴナダ監督とジャスティン・チョン監督の『パチンコ』を観るためにディズニープラスに入るべきなのか。ちょっと考えている。

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