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#映画感想文164『偶然と想像』(2021)

映画『偶然と想像(英語タイトル:Wheel of Fortune and Fantasy)』を映画館で観てきた。

監督・脚本は濱口竜介、3つの短編からなる作品で、2021年の第71回ベルリン国際映画祭で、銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞した作品である。

2021年製作、121分の日本映画である。

濱口竜介監督の作品は、棒読みのような長台詞という演劇のスタイルが用いられている。はじめのうちは、違和感を覚えるが、不思議なことに段々と慣れていく。

第1話「魔法(よりもっと不確か)」

こちらは、親友が最近親しくなった男性が、実は元カレだったという偶然のお話。親友の惚気話を聞いて、衝動的に元カレに会いに行ってしまうモデルの女の子の狂気が描かれている。会いに来られた元カレのほうも、愛憎半ばで、ぐらぐら揺らいでしまう。そんな元カレの様子を見て、女の子はあからさまに満足感を得ている。その饒舌さは、勝利を噛みしめているようでもある。自分が浮気をして駄目にした恋愛なのに、終わった関係性の主導権までも握ろうとする女の子の傲慢さは清々しいほどである。

「私のことを一度でも好きになった男は永遠に私に夢中でいればいい。(私は相手してやらないけど!)」という女性ならではの厚かましさが描かれている。付き合った女性を自分の一部のように感じたりする男性は、ここまで残酷なことはしないだろう。

ただ、この「偶然」に関しては、よくあることではないか、と思う。芸能人が芸能人と恋をしたりするように、同じコミュニティに所属している人同士でカップルになるのは、ごくごく自然なことだ。人の結びつきや繋がりは、近いコミュニティでできあがる。

結局、人間は物理的に触れ合えるぐらいの距離にいる人を好きになるのだし、似たようなコミュニティに属しているのだから、友達が元カレと繋がってしまうのは、不自然なことではない。

この作品を印象深いものにしているのは、やはり古川琴音の佇まいにあるのではないか、という気もしている。あのだぼだぼのパーカーを着ている女の子が、性に奔放であったことが、異化効果をもたらしている。彼女がエビちゃん(蛯原友里)みたいなモデルだったら、別に「ふーん」で終わってしまう作品だっただろう。

第2話「扉は開けたままで」

これはタイトルが秀逸であると思う。昨今のハラスメント対策を徹底している先生方は、扉を開けたまま学生と接するのではないか。特に男女となると、扉を閉めてはならないのだ。

芥川賞を受賞した大学教授は、事件をきっかけに、大学を追われてしまう。しかし、あれぐらいのことで、大学を追放されるだろうか、とも思ってしまった。もっと、ヤバい先生はいくらでもいるではないか。

「e」と「a」のタイピングミスによって起こる悲劇なのだが、これは古今東西、どの国の人でも、背筋がヒヤッとしたのではないか。よくある「偶然」が招いた悲劇が描かれている。

やはり、女の孤独につけこむ男は、ろくなものではない。

第3話「もう一度」

これは館内で笑いが起こり、楽しくて、とても気持ちのいい作品だった。(アンジャッシュのコントのような作品でもあった)

高校時代の同級生と偶然すれ違う。再会を喜び、相手の家まで行くのだが、話しているうちに、まったくの赤の他人であったことが判明する。ありそうでなさそうな出来事が描かれている。

わたしも、誰かに似た誰かとすれ違うことが、ここのところ増えてきた。よく見ると本人ではないのだが、昔の知り合いの誰かに似ている。中年になるまでに、多くの人とすれ違ってきたからこその現象だと思う。

そういえば「あなた、ひとみちゃんでしょう!」と街中でおば様に声を掛けられたこともある。わたしは首を振り、その場を立ち去ったのだが、わたしにそっくりな「ひとみちゃん」は存在しているのだろう、とは思う。ひとみちゃんのふりをする勇気はなかった。

何というか、恋愛でも友情でも、その関係性を壊さずに生きられる人はそれほど多くはない。関係が近くなればなるほど、距離の保ち方が難しくなっていく。大人になれば、成功や失敗、利害関係すら、露骨に影響してくる。

この第三話では、一時的な関係性、二度と起こらない「偶然」の中における、双方による「他者受容」が描かれている。そのような「奇跡」が起こることをわたしたちは夢見ているが、それは滅多に訪れない。きっと「想像」が足りていないのだろう。

派手さはないが、鑑賞後にあれこれと考えてしまった。それ自体が、映画鑑賞の醍醐味であるし、濱口竜介監督の作品にある豊かさなのかもしれない。

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