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『進撃の巨人』のミカサとエレンについてずっと考えて気付いたこと

2023年11月に『進撃の巨人』のアニメーションが完結した。それを機に何度か通しで見直した。そこで『進撃の巨人』ってライナーの物語だったのではないかと思ったりした。マーレ編のおかげで、単なるダークファンタジーではなく、人類とは何か、という一大叙事詩になったことは間違いない。それに「少年よ、神話になれ」と言われていた碇シンジ君より、エレンの方が神話的な人物になったことも興味深い。

というわけで、この記事は『進撃の巨人』を知らない人にはまったくわからない記事なので、ぜひともスルーしていただきたい。

いろんな人の考察を読んだ中では、段違いに面白かったのは、『進撃の巨人・自由論』というはてなブログ。哲学の勉強にもなるのでおすすめ。

しかしながら、ミカサとエレンの関係性だけは、いつまでもしっくり来ず、始祖ユミルを解放したのもミカサというのも、あまり腑に落ちなかった。(ミカサとエレンのことを考えるほど暇なのかと聞かれれば、その通り、わたしは暇人である)

正直、ミカサとエレンは、どうしようもない男女関係になっていたとしてもおかしくなかったのだが、そうはならず、馴れ合うことのない、かなり抑制的な関係であった。それはアルミンの存在があったことも一因だが、それだけが理由ではないだろう。

ミカサの命を救い、ミカサをミカサたらしめた(ミカサの能力を覚醒させた)のは、エレンである。その一件によって、ミカサはエレンを守る力を手にすることになり、力関係は逆転する。ミカサが守る側、エレンが守られる側になる。そこにエレンが忸怩たる思いを抱えていたことはわかっている。ただ、そもそもの苦労をともにしているのだから、そのハードルは乗り越えてもいいのではないか。しかし、二人は夫婦のような関係になることを避けていた。

そういえば、猿やゴリラは、同じ群れの中に一生いることはない。オスかメスのどちらかが、群れを移動していく。それは本能的に近親相姦を避けるためである。確かに、ミカサがエレンと結ばれるのは、近親相姦的なニュアンスがそこはかとなく感じられる。

エレンがミカサに対して拒絶を示す姿が、べたべたしてくる母親を拒絶する息子の抵抗に見えなくもない。一方の母親は、思春期の息子に反抗的な態度を取られ、ほとほと困ってしまう。真っ当な、まともな息子は母親から離れるものだ。ミカサとエレンは他人なので、近親相姦の禁忌はないのだが、幼馴染同士の恋愛とはある種の近親相姦的なシチュエーションであり、それをエレンは避けたのだと考えられる。幼馴染とは自分のすべてわかってくれて、許して甘やかしてくれる存在と同義である。

エレンはミカサから自立する道を選び、ミカサもそれを受け容れて、『進撃の巨人』は終わる。それにより、二人は互いから解放されたのである。

エレンを埋葬後、ミカサはジャンと結婚して子どもを持ったようである。しかし、ミカサはアルミンとくっついてもおかしくなかった。アルミンのお相手は、アニなのだが、これもミカサとアルミンが結ばれる、という選択肢を潰すためだったのではないか、という気がしないでもない。ミカサとエレンが結ばれることが近親相姦なら、幼馴染同士のミカサとアルミンが結ばれることも近親相姦にほかならないからである。

諌山先生は、ものすごくモラリストであり、実存主義者であるとも思う。そこが無邪気にミソジニーと甘ったれの近親相姦願望を垂れ流す作家との決定的な違いである。いい加減、大人にならなきゃね。

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