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異なりの中で「ことば」を拾う

私の大好きな「ケアをひらく」シリーズの本。『異なり記念日』は、このシリーズの中で一番、「誰にでも伝わることば」で書かれていると思う。めちゃくちゃ読みやすい。

…何より、この本をぐいぐい読んでまっさきに感じたことは、
「この人にはなんて美しい世界が見えているんだ…!!!!!!!!」。
大げさかもしれないが、それはちょうど、私が大好きなモネの絵を見た時に感じるのと全く同じ感慨である。

ここまで丁寧に日常を生きていること、日常の細部を見逃さずに心で感じること、が本当に羨ましくなった。
写真家という著者の職業のせいもあるだろう。

彼の美しいことばを前にすると、ここで感想を述べるのも野暮だが、忘れる生き物である私は、仕方なく簡単な記録をつけることにする。

聞こえないのは不便?

「障害は個性だ」、「障害があったって普通に暮らせる」、という人がいる。
しかし、実際に障害を負うと、または、重い障害を持つ人を目の前にすると、「個性」では片付けられない現実がある。

「障害を持つことは不便だが不幸ではない」
これは四肢障害を持つ乙武さんの言葉だったと想うが、確かに助けを借りながら暮せば不幸ではない。とはいえ、やはり「不便」はつきまとうし(これはマジョリティが作る社会の中にはどうしてもバリアが生じていることによる)、その「不便」が「不幸」に結びつく出来事もあるのだ。
著者のはるみちさんの場合だと、難聴のせいで妻のまなみさんの交通事故に気づけなかったことや、息子のいつきさんがベッドから落ちて泣いてても気づけなかったこと。危険に気づきにくいのは事実なのである。

とはいえ、はるみちさんはこの現実をただ悲しむだけでは終わらない。
確かに彼らろう者は「目に見える範囲」しか認識しづらい。しかし、はるみちさんは、上記の事件を通じて「見ているものが全てではない」ということを深く認識したのである。
この事実はろう者ではない者にとっても共通である。私たちだって、自分が見ている・聞こえている範囲でしか世界を認識できていないのだ。

この認識を得たあと、はるみちさんが始めたことは、「全身全霊で世界を感じ取ろうとする」こと。
なんか怪しく聞こえるが、簡単なことである。
息子のいつきさんに触れてぬくもりを感じる。抱っこしている時にいつきさんが笑う振動を感じる。「生活をただ受け取る」のではなく「生活を探しにいく」のだ。

手話という豊かなことば

「全身全霊で世界を感じ取る」という点では、聴者よりもろう者がむしろ得意とするところかもしれない。
その秘密は彼らが使う言語、手話にあると思う。

手話といえば、「単語に対応した手の形があって、それを連続的に繰り出すことによって文章を作っている」というイメージを持っている人が多いのではないだろうか。

(ろう者か中途失聴者かでも使う手話の種類は違うが、)はるみちさんたちが使う手話は「3次元的」なのである。
ポーズを作るだけではない。表情は文法として使われ、手を動かすリズム、空間の使い方やゆらぎ。全てがことばなのである。
はるみちさんの妻・まなみさんは1つのひらがなを表すだけのはずの指文字で物語を作り出し、はるみちさんは毎日それぞれ違う天気を全身でいつきさんに表現する。

手話は世界の描写なのである。

異なるものと、ことばでつながる

はるみちさんは、ことばと「言葉」を使い分けている。
ことばは心が身体を通して溢れ出てきたものであり、「言葉」は世界の中で意味を司り自他の利益のために操る対象である。

私たちは、意味や利用価値と離れた、心から出てくる、日常と溶けあったことばを身につける必要がある
これが出来なかったのが、手話を知らず、発音訓練をして聴者の社会に無理やり合わせようとしていた頃のはるみちさんである。手話を身に着けてはじめて、ことばを通じて自分の心にフィットした世界を体験できるようになったのだ。
このエピソードは、『リハビリの夜』の中で、熊谷晋一郎先生がリハビリから離れて一人暮らしを始めて、自分なりの身体様式を手に入れた時の状況と似ている。

このように、自分の心と世界とを溶け合わせるものが「ことば」だとすれば、音声言語や手話に限らず、まなざしやしぐさ・ふるまい、全てがことばなのだ。(「メッセージ」といったほうが分かりやすいかもしれない。)

私がとても素敵だと思ったエピソードがある。
はるみちさんの息子・いつきさんが初期に覚えたことばは「すき」。
彼はこのことばが大好きで、「すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!すき!…」はるみちさんとまなみさんに繰り返す。
まさに、いつきさんは、ことばを心から溢れ出てきたものとして身につけているのだ。
普段私たちは、私たちの愛するものに向かって心から溢れ出るようにして言葉を使っているだろうか?
私たちは「ことば」を忘れてはいないだろうか

「苦くて甘い異なり」

そして、この本のテーマとなっているのが今まであまり触れてこなかった「異なり」について。
聴者文化の中で育ったろう者のはるみちさん、ろう文化で育ったろう者のまなみさん、コーダのいつきさん。それぞれが体験している世界は異なるものである。

その異なりに気づく時、私たちは寂しさや痛みを感じる。
例えば、はるみちさんにとっては、いつきさんが暗い部屋で笑ったり泣いたりしていても気づけないとき。いつきさんにとっては、楽しい音楽がお父さんには共有できないと知ったとき。

しかし、はるみちさんは「人と人との関係は隣接する平行線」と表現する。
私たちは誰でも異なる存在で常にすれ違ってはいるけれど、決して離れ離れなわけではない。ことばによって手を差し伸べれば交わることができる。
そして、そこには、「異なるけれど、通じた」という無上の温かくて幸せな感動をもたらしてくれる
のだ。

これは何も、聴者とろう者の家族だけの話ではない。
私たちだって、若いときは、家族や友人や恋人に「私の全てを理解してほしい」という気持ちを抱いては、それが満たされずに「私のことを分かってくれる人なんかいないのだ」という絶望に陥った経験があるかもしれない。
しかし、少し大人になってみると、私と他人とは違う存在なのだ、とわかりながら、同じ部分も発見して強く感動を覚える瞬間がある。この喜びである。

さらに、これは何も、私と友人・恋人だけの話ではない。
私はこの「異なる中での喜び」は、自分とは無縁に思える存在との間にも生まれるはずなのだ。

聴者と盲者。
心の健康な人と精神疾患の人。
日本人と移民・難民。

異なるから到底わかりあえない「苦さ」もある。
しかし、関わってみればひととして同じ部分が見つかるかもしれない。すると、「苦さ」があるからこそ強い感動が生まれ「甘い」幸せをもたらす。

私たちは、「異なり」の「苦さ」も「甘さ」も、ことばを通じて全身で感じられる存在なのだ。

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