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ネクロフィリア的思考

人間は喋るから憎たらしく、
死体は沈黙を貫くから美しい。

わたしの友人は死んだ。病気だった。
4年か、5年前のこと。私がまだ大学生の頃の話だ。
コロナが流行するよりも前、彼女はこんな世の中になることも知らない。志村けんが亡くなったことも、嵐が解散してしまったことも知らない。
彼女が入院をしていることは知っていたが、3ヶ月もICUにいたことは知らなかった。成人式にも出られなかった。通夜の日、彼女は柩の中で振袖を身に纏っていた。

彼女の死をモチーフに、このやり切れなさを主題に小説や詩を幾つも書いた。生きている間に向き合いきれなかったことを悔やみ、今できることをぜんぶしようと思った。
だから、彼女とともに卒業するべく私は学部首席で、学位授与式は壇上に上がったし、卒業してから2週間で正社員での職に就いた。
卒業制作の中にも登場する彼女は、きっと私とともに学位を手にできたことだろう。彼女のご両親にも都度ご報告に行き、周りの友人にも事あるごとに彼女の話をした。彼女は忘れられていない。記憶の中にある以上、彼女は生き続けている、私は未だにそう思っている。これはひとつの信仰です。

思い返すと、そこそこ優秀な大学時代で、短編小説の課題を一度だけ落としたことがある。3000字程度の一晩で仕上げられそうなものだ。ただ、その機が、友人が亡くなった報せを耳にして2日後のことだった。

白雪姫の王子は、原作だとネクロフィリアだと言われている。ディズニー作品のように白雪姫は王子のキスで目を覚まさず、王子は死んだからこそ白雪姫を愛すのだ。
課題の内容は今はもう覚えていないが、そのモチーフを用いて、私は本物の愛が描きたかった。しかし、あまりにも事態が生々しくて、私はそのとき筆を執るのをやめた。私は、彼女が死んだから彼女に興味を持っているのだと気づきたくなかったのだ。

昔好きだった人に、モーツァルトは死んでいるから好きだ、と言われた。今思えば、アマデウスか何か作品を受けての話だったのかもしれないが、私はその通りだと思った。偉人はみんな既に死んでいるのだ。

死人に口無し。その事実が私を安心させる。
私が嫌な人間であると口外しない者を私は懸命に愛し、決して壊れない、一方通行の愛情を未だに浴びせ続ける。壁打ちなら帰ってこない、流行りの蛙化現象なんて起こる余地もない。

制作をするだけで生きていられる、モラトリアムな時間は終わった。
私は薬を食み、会社から貸与されたパソコンに向かい、生きた人間を愛し、地を這いずりながらも現実を生きている。

オフィスビルの大きな窓から、入道雲の浮かぶ夏らしい空を見るたびに思い出す。
生きている間に大切にしきれなかった私を、君は今恨んでいるだろうか。

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