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不完全を認めること

人は不完全だ。

最近、尊敬している人の嫌な部分を見たり、仲良くしていた同僚に冷たく当たられたりし、
精神的に結構きてしまっていた。

私が、他人の不完全さを認められないのは、なぜなのだろう?

そう考えた時、思い至ったのは

『わたしは完璧でいようと努めているのに』

だった。

イラっとしても顔に出さない。もちろん態度にも出さない(ように努めてる)
嫌なことを押し付けられても引き受ける。
嫌なことを言われてもへらへらして乗り切る。
本当はしんどいのにしんどいと言わない。
などなど。

自分に認めていないことを、他人に認められるわけもなく。

なので、できるだけ完璧でいないことにした。

が、何十年も染みついた処世術はそう簡単には抜けてくれず、現在目下努力中、といったところだ。

まずは、下手に気を使い過ぎないところからはじめた。

例えば、二人でいて気まずい空気の時、私は率先してしゃべりだす。
それを止めた。
これは、どこかで聞いた『あなたがしゃべっていない時、相手もしゃべっていないのです』的な言葉でハッとしたから。
そんな当たり前のことにすら気づかないほど、私はそういった時120%自ら話始める人間だった。
特に話したくもないことを、特に話したくもない人に。
そしてこの行為がとても疲れることも、最近知った。
なぜなら、止めたらとてつもなく楽だったから。
そして、それを特に相手も望んでいないことも最近知った。
一体私はひとりで何をやってたんだよと。笑

なんでも率先することも止めた。
例えば職場の『誰がやってもいいこと』
これを率先してやることも止めた。
これも上記と同じ、『私がやっていない時、他の人もやっていないのだ』
そして、やらない人は『誰かがやってくれる』の思考になり、
その感覚がどんどん麻痺して最終『自分はやらなくてもいい』になる。

要は、適度に『自分勝手』になる努力をしている。

自分の自分勝手を許せると、相手の勝手にも鷹揚になれる。

…気がする。笑

不機嫌な人がいて、その刃が自分に向けられた時も、
以前までであれば『私なんかした?!』となり、落ち込んだり、怒りをため込んだりして、
なんなら休みの間もその人の機嫌が治るまでずっと思い悩んだりしていた。
(冷静に文章化してみるとなんて病的な考え方なんだろう)
だが最近は、『あぁ、また悪魔に憑りつかれてるな~』と思えるようになった。
その人が他にストレスを抱えてるとか知らん。
そこまで考えだすとまた自分がしんどくなるので、単純に『憑りつかれ期間』と受け止めることにしている。
している、というか、していく、くらいの感じ。笑
まだまだそれくらい私の認知の歪みは建て直し真っ最中です。

実際、冒頭に書いた二人は、いつものように変に気を使って話しかけたりせず、しかし逆に積極的に無視をしたりもせず、
淡々と距離を置いていたら、しばらくして何事もなかったかのように接してきた。
そんなもんなのである。
自分が思うより、世の中はもっともっと鈍感なのだ。

これは生きづらい私が少しずつ、生き方を模索していく物語。

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