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きみはいい子

映画を観ました。
学級崩壊寸前のクラスを担任する1年目の教師。
そのクラスにいる母親の再婚相手から虐待を受けている男の子。
戦争の記憶を引きずりながら、少し認知症があるおばあさん。
自閉症の男の子と母親。
自分の子供に手を上げてしまう母親。

担任が主な主人公ではあるが、それぞれの生活を淡々と描いているのに好感が持てた。
目の前に悲劇があっても、簡単には介入できないし、介入することが正義なのかどうかもわからない。

子どもができて特に思うのは、本当に様々な「家庭」があり、ルールがあり、価値観があり、環境があり、愛し方があるということだ。
それに、他人がとやかく言うことは、限りなく難しい。

世界中の子供たち、全てが幸せであればいいと、本当に切に願ってやまないが、そうではない現実は確かにある。
でも、それをどうにもできない。
そもそもが、自分の子供だけで精一杯だ。
正直、自分の子供ですら満足に育てられている自身がない。

私自身、つい先日行事で棒立ちで泣く子どもに打ちのめされたところだったので、
自閉症の子のことを「本当にいい子でしたよ。片付けもできるし、仏壇に手を合わせてくれたの。あいさつもちゃんとできるし。」と言ったおばあちゃんのシーンが一番印象に残った。
その言葉に母親が堪らず涙するシーンも。

親子だと、どうしても視野が狭くなってしまう。
毎日一緒にいるものだから、いいところより悪いところの方が自然と目につく。
いいところは当たり前のこととして流してしまう。
こういうおばあちゃんがいてくれたらいいのにと、心から思った。
本当は誰よりもこどもがいい子だって思ってるのだ。

虐待の一番の悲劇は「それでも親が好き」ということだ。
好きなのに受け入れられない。
これは当たり前だが、恋愛のそれとは次元が違う。
もっと本能的で、むき出しで、重いものだ。

これもまた、子どもを産んで分かったことだが、大人から親になるには相当時間がかかる。
私は親になって4年のぺーぺーなので、当たり前だが親になった実感も、自信も、全くない。
むしろ大人になれているかすらあやしい。
そんな人間が同じ人間を育てているのだ。
と、いう認識をどこかで持っていないと、「親」というだけで人はたいそう偉そうぶりたがる。
偉そうに教えたり、感情的に怒ったり、叩いたりする。

わたしはもちろん一度も叩いたりしたことはないが、
おそらく無意識に怒っている。
特に朝のようだ。
ようだ、というのは、4歳の息子が朝起きてからおもちゃで遊び、でかける前になっておもちゃを片付ける時に
「片付けしないとかか(おかあさん)に怒られるからな!」と言うからだ。
その他にも「ようちえん行く前にうんちしないと、かかに怒られるからな!」も、言う。
朝、怒鳴ったこともないし、自分では怒ったりしていないつもりだったが、
「はやくはやく!時間ないよ!おもちゃ片付けて!」や「(え…今かよ…)はぁ~(深いため息)もー、早くズボン脱いで!」という風に(おそらく必死の形相で)せかすだけでも、
彼にとっては「怒られている」の範疇だったらしい。
たぶん、怖かったろうと思う。

もちろん、そう言う彼に悪気は一切ない。
だが、「イラッ」とした自分がいた。
わざわざ言ってくることに対してイラッとしたのだ。
しかもそんな怒ってないし…とも思った。
だが、受け取り手は子ども。
親のいつもと違う雰囲気が、怖いのだろうと思った。

親になり切れていない大人と、そんな親の影響をモロに受けてしまう子ども。
このバランスを、どうとっていくか。
それが育児じゃないだろうか。
言っておくが、私は「叱らない育児」や、「いい親風育児」も大嫌いだ。
虐待が負の方向に振り切れているとしたら、これは正の方にあまりにも振り切れすぎていると感じるからだ。
そしてどちらも子どもの事を「自分とは違う一人の人間」として扱っていないという点で共通していると思う。
というか、育児書通りに育てる時点で、その子ども個人と向き合えていないと思う。
ハリボテの表面だけ見せていても、自分が良い親なわけじゃない。
良いハリボテなだけだ。

そして、こどもがこう言う場合はこう返す、こういう行動にはこうする、というのは
誰にでもあてはまるものじゃない。
同じことを言っていても、その意味合いは個人によって違うことを、大人の場合であれば理解できるのになぜ、こどもは一様に同じと思うのだろう。
かけがえのない、世界に一人だけしかいない自分と、世界に一人だけしかいない子どもと、世界にひとつだけしかない関係を作ればいいだけだ。
なのになぜ、教科書通りの親子になろうとするのか、私にはよくわからない。
それは映画を観た時に、「一番支持されていたレビューにはこう書いてあった」という感想を言うくらいつまらない。

ふと、思うことがある。
なぜ、セックスと子育てがセットなんだろう、と。
まぁ、有り体に言えば、子孫繁栄のためなんだろうけど、そのセットが有効に働くためには今の社会はあまりにも複雑化しすぎたように思う。
子を増やせ増やせというならば、やらなければならないことは出産費用を補償することではない。
育児のフォローをし続けることだ。
様々な理由で子供を育てるのが困難な大人に手を差し伸べることだ。
土台、難しい子育てが、もっともっと困難な人たちを見守り、寄り添うことだ。
家庭が檻になってはいけない。

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