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最期のプロデュース「僕の死に方 エンディングダイアリー500日」金子哲雄

著者の金子哲雄さんを、私はリアルタイムで知らない。主婦目線でお買い得情報をリサーチし、それを面白おかしく伝えるジャーナリストとして有名だったようだ。もともと、私はテレビを見ない生活をしているのでコメンテーターとして彼が出ている番組を見たことがなかった。
私自身は、終活に関心を持ち始めてから、「ソナエ」という雑誌で金子さんの奥様のインタビューで初めて金子さんを知った。

「肺カルチノイド」という致命的な病に侵されてから、難病との闘病・在宅医療・終末ケア・自分自身のエンディングの計画、残された遺族へのグリーフケア、まさに終活のすべてを命を削って書き残した1冊の本。本書はジャーナリスト金子哲雄としての半生記であり、同時に終活指南書にもなっている。

終活の「生放送」

私は、実は、相当な数の「終活」本を読んでいるが、実際に、自分の終活を「生放送」で書き残した金子さんの言葉が、他のどの本より、ぐっと胸にくるものがあった。今まで読んできた、終活本の中では、1,2位を争うほど、心が打たれた。

500日という遺された時が、長いのか、短いのか、その期間の中で、闘病から、死への準備に向かう、金子さんの心情が見事に綴られている。奥さんが書いたあとがきで、死の直前の金子さんの様子には涙した。
それと共に、夫婦ふたりで死を迎えることができる終末在宅医療について興味が湧いてきた。もちろん、悲しいこと。病院の騒然とした感じが無いだけに、もっと苦しく切なく、寂しいのですが、最後のお別れはたった二人だけでしたいというのも事実だ。

難治の終末期医療の現実

金子さんがかかっていた、肺カルチノイドという病気は致命的なものだった。発見された時点では、いつ、窒息して死ぬかわからないといわれるほど、腫瘍が大きくなり気管を圧迫していたそうだ。がんと同様に腫瘍が大きくなり、放射線・手術・抗癌剤などが使用できないものだった。

だれもがそうであるように、金子さんも病気が発覚した当初は、さまざまな治療法を探し求めなんとか生き延びようと努力し続けた。 しかし、現実の壁に突き当たり、死を逃れられないことを悟り、1週間泣き続けた。テレビでのレギュラーを何本も抱え、ちょうど乗りに乗っている時期でもあった。

難治の病気でもあったために、大病院や専門病院では積極的な治療やケアは行われなかった。病院の実名こそあげていないが、金子さんは、こうした対応に深く傷つくことになる。

「私にとっては少なからず縁のある大学病院である。期待もあった。だが会った瞬間、淡い期待は木端微塵に砕けた。彼は私の目を一顧だにしてくれないのだ。書類やスキャン画像に目を落としているだけで、実にそっけない。・・・大学病院の医師は、治癒率を気にかける。それが業績や評判に直結するからだ。私の病気は治らない。この医師の側からすれば、私のような患者は、厄介者なのだろうと即座に感じた。」(P78)

この後、金子さんと奥様は、いくつもの病院を回るが、ほとんど、門前払いのような対応も受ける。実際、抗がん剤や放射線、手術ができない患者は基本的に何の助けも得らないのだ。ここに現代医学の限界や、盲点を見る。

難治の患者が、民間療法に走ることを馬鹿にする医師は多いのだが、じゃあ、どうすればいいというのか。実際にはどこにもいけない患者がいるということを思い知らさる。私はいたずらに西洋医学批判をしたいとは思わないが、大学病院であっても、専門病院であっても、できることには限りがある。これも現実だ。

医療の目的を「治す」ことを最終目的にしてしまうと、もう「治らない」患者の場合は、何も成すことがなくなってしまうのだ。まさに、金子さんは、この事実を身を以て感じる。

そんな金子さんは、友人たちの助けも得ながら最終的に、在宅医療の道を選んでいくことになる。在宅で「死ぬまで」最大限に仕事をしながら生きることを決意したのだ。金子さんは、仕事をできる限り続けながら(世に病気を告白せず)闘病することを決意したのだが、そうできたのは、在宅医療を選んだからだった。

最後まで「生きる」ための在宅医療

「おかしな言い方だが、末期がんとわかって以降、仕事の喜びが増した。毎回、「この仕事が最後かもしれない」と思って仕事に臨む。そう思うと、ますます全力で取り組むことができた。仕事ができる喜びを体いっぱいに享受することができた。」(P90)

「在宅で終末医療を受け、妻とふたり、自宅で過ごし、妻に看取られて死を迎える。それが自分にとっては最大限、幸せを享受できる最期の迎え方ではないかと今、確信している。・・・妻には迷惑をかけるものの、好きな時に起き、好きなものを食べ、何よりも自分のペースで仕事できる。このように原稿を書くことができるのも、在宅終末医療のメリットのひとつだ。」(P152)

テレビ出演なども、激ヤセ報道が出されるほど最後まで出演し続けた。実際、死の1時間前まで雑誌の連載の校正作業をしていたそうだ。まさに、「死ぬまで現役」だった。金子さんの選択は、難治の病気、もしくは非常に厳しい病気との闘いを行う人へのひとつの道筋を示すものとなっている。

何が何でも病気と闘い「治す」ことがだけが、医療ではないということ。
ときに、「治らない」ことがわかっていても、最後まで患者の生活の質を
保たせるために、最後まで現役で「生きる」ために提供できる医療があることに気づかされる。

同時に、紹介されている野崎クリニックのように、往診を行い、在宅医療を献身的に行っている医師たちの存在にも気づかされた。在宅終末医療の実際の経験談を金子さんが、自分の経験を通して明らかにされていったことには確かに意味があった。こういう「死に方」があるんだ!また、こういう「生き方」があるんだ!という気付きだ。

難治の病気に対して、大学病院、専門病院はなすことがほとんどない。「治す」ことだけに集中する医療にとっては「治らない」病気は存在しないも同じ。在宅終末医療を選んで、「死ぬまで」一生懸命に「生きる」ことを選んだ金子さんの勇気ある告白は、同じように生き方の質を最期に向けて考える人の大きなヒントとなる。

自分自身の葬儀のプロデュース

金子さんの最後の大仕事は、自分自身の葬儀の準備(プロデュース)だった。そこには、消費者の求める情報を出来る限りわかりやすく語り続けてきた流通ジャーナリストの意地が見え隠れする。

「やり残したことはわかっていた。死んだあとのことだ。まがりなりにも、「流通ジャーナリスト」として情報を発信してきた。自分の最期、葬儀も情報として発信したいと思った。賢い選択、賢い消費をすることが、人生を豊かにする。自分が何度も口にしてきた台詞だ。葬儀は、人生の幕引きだ。これも含めて、人生なのだ。その最後の選択を間違えたくなかった。私は自分の最期を、最後の仕事として、プロデュースしようとしていた。」(P124)

賢い選択、賢い消費をすることが、人生を豊かにする。これが金子さんのモットーであり、それを最後の「葬儀」という自分にとっての最後の「儀式」に反映させていこうとした。

ひとつの大仕事(本の執筆)を終えた後、金子さんは危篤状態に陥る。奇跡的に命をとりとめましたが、その時から、どのように死ぬか、「死に方」に正面から向き合って生きるようになる。実際、この本は、危篤状態から回復し、実際に亡くなるまでの1ヶ月で書かれた本だ。単に家族に遺書を書くのではなく、それをこれから経験するであろう人へのいわば「お買い得情報」としてちゃんと書き留めておくこと、これこそ金子さんの最後の仕事だったのだ。

闘病記・死への準備を一冊の本にまとめるという仕事

「病気の発覚から、現代医療が抱える問題点、がんやカルチノイドの治療情報の集め方など、思いのたけを1冊の本にまとめる作業にとりかかった。40代で死ぬということがどういうことか。妻のために準備しておくことはないか。気持ちにはどんな変化があるか。それを残しておきたいと思った。」(P151)

「私は「流通ジャーナリスト」を目指した初心を思い出していた。誰かに喜んでもらいたい。それが自分の信念だったではないか。たとえ死ぬからと言って、嘆いていても、だれも喜びはしない。周りが暗く沈むだけだ。だったら今、自分のできることをしよう。それには、仕事先のリクエストにきちんと応えることだ。相手が100を望むなら、120で返そう。今まで以上のパフォーマンスを見せよう。仕事に集中しているときは、その間、私の中の恐怖を忘れることができた。」(P144)

人生のエンディングを自分で決めたいと思う人にとって金子さんが残してくれた手記を読むことは、何をどこからはじめ、どんな選択肢があるかを知る助けになる。

金子さんがまず取り組んだのは、遺言の作成だ。しかも、後々もめないように公正証書遺言の作成を知人の弁護士に依頼する。

「公証人の出張料金は9万6000円。「高い」とも思ったが、法的にいい加減な遺言を残して、のちのち揉めないようにするためだと思えば高くない。」(P126)

知人の弁護士からは、故人が亡くなった後に、家族でもめる多くの問題を聞く。たとえば、葬儀費用を誰が持つのか?ということでももめる。故人の資産から出すのが当然と考える人もいるが、喪主が出すのが当然と考える人もおり、相続の問題も絡むと、ここで一悶着起こる可能性もある。それで、金子さんは、まず費用をしっかり見積もって、葬儀資金を取り分けていく。

葬儀費用を自分で支払う

「葬儀の準備もしっかりやっておきたかった。「しっかり」というのは「盛大に」という意味ではない。残してしまった妻や、関係者に迷惑がかからないように、きちんと手はずを整えたかったのだ。まず、お葬式の費用はすべて私が自分で出したかった。死んでしまうと、口座はロックされてしまう。だったら、かける費用を見積もって、その分を先に妻の口座に移しておく。」(P127)

葬儀会社を選定し、生前見積もりを取り、実際の葬儀の手配をする。葬儀の進め方の打ち合わせ、できればシナリオも構成作家に依頼しようとしたが、それは止められたとのことだ。

骨をどうするか、葬儀会場、霊柩車、死に装束、遺影、細かな点まで、話を詰める。結婚式みたい。奥様と二人で話し合いながら最後のセレモニーをどうしていくのかを徹底的に決めていったのだ。奥様のあとがきによれば、金子さんは、死んだ直後の指示も与えていた。

「金子からは「僕が死んでも、救急車を呼んではいけないよ」と、口酸っぱく言われていました。病院での死はそのまま扱われますが、在宅で死を迎えた場合、救急車を呼んでしまうと不審死扱いになってしまい、その後が面倒になるというのです」(P188)

実はこれ、私も経験している。もう老衰と言えるようなおばあちゃんが亡くなった時、自宅で、そのまま眠るように亡くなった時、同居家族が朝に起きて、第一発見者になった。119番したため、不審死扱いになり、警察がやってきて自宅はものものしい雰囲気になった。遺体はすぐに検死されてしまい、遺族には、何度も何度も、尋問のような聞き取りがあった。

のちになって、「警察は私が遺産目当てで殺したと思っているんだわ」とその方、言ってたが(ありえないですが)、それくらい最後が騒然としたものになってしまうのが、自宅での「死」の現実なんだ。

かかりつけの医師を呼んで、死亡診断してもらえばそのすべてを避けらる。これを金子さんがちゃんと事前に知っており計画していたのはすごいことだ。最後の最後を本当にコントロールしていたのだ。しかも、その最後にあたっては、死亡診断書の内容まで指定したという話には落涙する。

「死亡診断書も、どう書くのか、本人と先生の間で話し合いが進んでいました。死因をカルチノイドにしてほしいと、金子が先生に頼んでいたのです。「曲がりなりにも一応、少し名が知れていると思うので、僕の死が少しでもニュースになれば、カルチノイドという名称が皆さんの目に触れると思うんです。だから死因は肺カルチノイドということでお願いします。」死亡診断書まで自分で考えていたのです。」(P189)

これから先、肺カルチノイドで戦わなければならない多くの人のため。その病名の知名度をあげるための、いわば「プレスリリース」だった。

最後の最後を自分で決めていくというその生き方、逝き方には深い感銘を受けざるを得ない。遺された奥様への深い愛情も感じられる。今わの際であっても、自分の体調というだけではなく、その後に起こることに思いを巡らし続けていかれたからだ。金子さんは想像力が豊かだった。

実際、こうした死後のプロデュース、葬儀の準備、本書の執筆のために医療用麻酔を極限まで減らし、痛みと闘いながら仕事を行ったそうだ。(麻酔を打つと朦朧とするため)

同じ立場になったときに、先を歩いて見事に成し遂げた先人がいるということが素晴らしいことだと思うのだ。金子さんはもういないが、金子さんが遺したものは、これから多くの人が人生の最後を見事に締めくくるために役立つものだ。これこそ、金子さんの目指していたものではなかっただろうか。その願いが見事に果たされたのだ。

人生の最後の仕事は、自分の死のプロデュース。葬儀から墓、死後の家族の世話まで、すべてを自分で計画し、実行することができるということを金子さんの手記は教えている。そして、最後の準備は、残された家族へのケアも含まれることになる。

遺された遺族のグリーフケア

グリーフケアとは、家族の悲嘆を癒やすケアのことだ。葬儀の後に、虚脱感に襲われて「うつ」のようになってしまう遺族は多いようだ。そこで、金子さんは奥様にあるミッションを与える。死後のプロデュースの中でも主要なミッション。「感謝の全国キャラバン」だ。

「地方の方は、通夜にも告別式にも、なかなか来られないだろう。わざわざ来ていただくのも心苦しい。だから妻には、「感謝の全国キャラバン」を頼んだ。お世話になった方々を訪ねて、その近所でお礼の食事会。すでに招待リストと店の指定まで終え、その予算も出した。もちろん、代理として行ってもらう妻の移動費も計上済みだ。」(P129-130)

「感謝の全国キャラバンなんて、くだらないことを考えていると思われるかもしれないが、これは今の自分にもできる、最大限のことなのだ。相手を喜ばせるための仕事を、今、私はできていない。その代わりに、葬儀と葬儀後をプロデュースすることで、相手に喜んでいただきたい。実際、こうしたプロデュース作業は楽しかった。自分の「死」にまつわることなのに、作業中、喜んでくれている相手の顔を思い浮かべて、笑みさえこぼれた。」(P130)

金子さんの性格を物語るようなエピソード。とにかく、人の喜ぶ顔を見たい、できるだけ多くの人に笑顔になってほしい。自分の「死」という最高のイベントを、恩返しの時間にしたい。

そして、それを金子さんは奥さんに託する。実は、これが、奥さんにとっては最高のグリーフケアになった。金子さんが亡くなった当日のことを奥様があとがきでこう書いている。

「ありがとう、お疲れ様。私は金子に声をかけていました。目から涙が流れてきたけれど、泣いているのとは違います。
・・・
「これから始まるんだよね。今から、哲っちゃんが用意したことをはじめないといけないんだよね。今までありがとう。じゃあ私、これからやるわ」きっと切り替えの涙だったのだと思います。(P187)

亡くなった時から、葬儀、そして感謝の全国キャラバンを始めるための新たなスタートをきることができたのだ。ここまで、配偶者のことを考える人はめったにいないし、金子さんご夫妻は、ほんとに似たもの同士というか似合いの夫婦だったんじゃないか。

この全国キャラバンが、奥さんが立ち直る機会になったことは終活雑誌ソナエで書かれていた。

「遺された私が悲しみから立ち上がり動き出す力まで与えてくれるミッションでした。たとえば、全国にいるお世話になった方々へのご挨拶などは、夫を喪ったダメージがまだ大きな頃で、心身ともに厳しい作業でしたが、電車や飛行機に乗って移動すれば、環境も代わって、悲しみを抱えていても気分転換になりました。初めてお会いする方々から生前の夫の生き生きとした様子をうかがい、新たな悲しみを感じることもありましたが、同時に皆さんからの温かい気持ちを受け取り、自分の中に力が溜まっていくようにも感じていました。」(ソナエ春号2014 P37)

金子さんがここまで、考えて、奥様に感謝の全国キャラバンを頼んだとしたら、すごいことだ。でも、金子さんなら、そうしたかもしれない。自分の死後のことを考えることには、遺された家族がどのように悲しみから立ち上がることができるかを考え、それを計画することも含まれるのだ。

感謝の全国キャラバンという、関わった人すべてと奥様のための、最後の「儀式」を用意した金子さん。多くの人と関わり、その中で、悲しみや痛みは、少しずつ除かれていくもの。その後、奥様の雅子さんは、闘病記なども記されている。決して、悲しみが癒えたわけではないにしても、力強く、悲しみの時を乗り越えていく姿に感動した。

メメントモリ(死を思え)

いつも、こんなことを考えていると、ノイローゼになるかもしれないが、死と向き合うことは、真に「生きる」ことと同義だ。死というラストシーンに向けて、生きている現実。そこから目をそらして、まるでそれが存在しないかのようにふるまう世界。死が訪れると人は取り乱し、驚き、悲しむ。でも、本当は死は誰にでも訪れるラストだ。

本当に自分の人生をプロデュースしたい人は、死を思わなければならない。そうして初めて、悔いのない作品が作れるに違いない。

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大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq