絶対に生きろ、なんて言えないけど生きていて欲しい

追い詰められて、逃げ道が見えなくなった時や、逃げることを自分または他が良しとせずに潰れるまで耐え続けた時などに、唯一「死」という逃げ道だけが見えるときがある。

SNSは広いようで、でも、狭い。どんな良い事も悪い事も届いてきてしまうから。助けを求めるために手を伸ばすには少し脆いような気がしてしまう。

じゃあ、それ以外で手を伸ばして届くものは何だろうか。

相談窓口があるのでそこへ電話を、というのもまえからよく聞く。自分もしんどい時、何度もかけたことがある。しかし繋がるのはほぼ奇跡だった。人が足りてないからか、何十回かけても繋がらなくて、コールの音を聞いてたり「後ほどお掛け直しください」などと言われたりして、余計に苦しくなってしまった。どうせ繋がらないだろう、と思って、結局は選択肢から除外してしまっている。

死ぬくらいなら周りに相談をしろ、というのもあるかもしれないが、本当に心が追い詰められてしまった時には、そこへ助けを求めようという気にならないこともある。この世界から消えたいなと思うたびに、相談しちゃったら何か迷惑かかるかもしれないし、とか、心配されたくないし、とか考えてたら連絡もしづらいなと思ってしまう。そして自分の中で完結させようとする。自分だけ苦しめばすむことだ、と。

死ぬ時はみんな一人で死ぬ。誰に看取られたって、死ぬ瞬間にはもう、一人。
でも、光のない孤独の中で自ら命を絶つことを選択するということは、どれほど寂しくて、怖くて、絶望的なのだろう。
そこに到達する頃には、怖さというのはないのかもしれない。

それまでのこと、楽しいこと、悲しいこと、幸せなこと、全てが自分ごと消えてしまってもいいと思えてしまうほどに、意識を失い消え去ることを望む。それほどにまで自分を苦しめたものはなんだったのか。そう思わせたものは。

「生きてさえいればどうにかなる」というような言葉さえ無意味に思えてしまうほどの、死に引き込む強く深い絶望が襲いかかってしまったのか。

その絶望を周りに悟られないよう、優しさと明るさで覆い隠して、中身は傷だらけになっていたのかもしれない。

分からない。分からないけど、とても純粋でまっさらで、優しすぎて、生きてること自体苦しくなってしまったのでは無いかと思う。

全員が純粋であるようなそんな世界なら、みんな幸せかもしれない。でもそんなことはないから、優しくないことだってたくさんある。

全員が完全に幸せな世界ってきっと実現不可能で、多数決的に幸せな世界の形が作られていくと思う。

一人ひとりの理想の幸せの形が違うなら、絶対に生きろ、なんて言えない。生きることがほんとに苦しいと感じてる人に生きることを強制することが出来ない。

でも、生きていて欲しい、とは思う。

わがままかもしれないが、自分が生きていく中でその人がいてくれないと、すごく寂しい。いなくなってしまったら、一生悲しさを感じる。心に、永遠に埋まらない隙間が空いてしまう。

だから生きていて、自分の生きる理由の一つであってほしい。

光のない孤独の中で死ぬなんて、そんな寂しいことしてほしくない。

苦しい時は泣いてもいい、休んでもいい。
落ち着くまで休み続けたら、また動き出せるようにも笑えるようにもなるから。

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