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グレたい。

"爆音で流れる大好きな音楽と匂いで意識が朦朧としていきそのまましにたい"

これは確か、わたしが高校生のときにSNSで呟いた一言だったと思う。


「平成くん、さようなら」

という作品を読んでいて思い出した自分の言葉だった。
社会人6年目となった今の自分の言葉としてどうだろう、と思う。今この言葉を思い出したということはほとほと、そう変わっていないのだろう。自分の好きなものの基盤が変わらないように、浅はかに生まれた希死念慮も浅はかなまま心の隅に残っていることを思い知る。

死生観については、なかなか日常生活において触れてはこない部分だろう。ましてや人の死生観について語り合うきっかけなどもそうない。
教育課程では生きようとすることこそがこの世界の正解、と謳っているようにも思える。

"人それぞれ"の分野にしてはあまりに大きな世間の縛りのようなものが背景にある気がして、考えることをやめてしまう。
誰しもに訪れるその瞬間に、選択を設ける許可についてを生み出そうとしているのだからある意味人間らしい議題なのかもしれない。


ところで生きているか生きていないかもわからない存在と、生きているとは思うがもう二度と会えないことが確定している存在と、生きていないかもしれないがまた何処かで会えるような気がする存在と、どれが心にとって優しいものだろう。

突然に自分の前から姿を消してしまう行為は、相手にとってそれなりの穴をあけるのではないか、と思う。例えそれが気に食わない相手であってもだ。
気に食わないのではないか、気に食わないと思えるだけ関わったのだから。人間は時に都合の良い生き物である。

完全に失ってしまうこと、それは最も恐れていることなのかもしれない。肉体的にも精神的にも。赤の他人も自分自身も。
記憶の中で生き続けるという美しい仮定は誰かの心を救っているかもしれない。


マルかバツかそれ以外 ー


人生は選択の連続というが"死"というものに選択が付いてしまったらわたしはどうだろう。
今の時点ではきっと生きたくない気持ちを抱きながらも必死に生きるだろうと思う。必ず死ぬと書いて必死ならばわたしはその瞬間まで生きていようと思う。

あまりに無関心で隣り合わせな死生観について、考えることが出来て良かったと思う。

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