翻訳の格闘

「はじめに言葉ありき」という聖書の冒頭の句だが、この和訳が果たして正しいのかどうか、ずっとモヤモヤしている。

というのは、ヨハネの福音書をギリシャ語で読んだとき、ここは「始まりにロゴスがあった」と記されていたからだ。ギリシャ語の「ロゴス」には、いろんな意味がある。「言葉」という意味も、もちろんあるけど「学」「秩序」「理性」なども含意していて、その示す範囲がすごく広い言葉なのだ。

例えば、科学技術を意味する「テクノロジー」の「ロジー」の部分は「ロゴス」がその由来だ。あるいは「論理的」というときの「ロジカル」も同じ。ロゴスは、あらゆる秩序や系統だったもの、理性が働くところ全般をカバーしていて、必ずしも「言葉」という意味には限定されない。

世界各国の神話の冒頭を見ると、だいたいそこでは世界の成り立ちが語られている。巨人が死んだところから世界ができたり、創造神がいて天と地を作り上げたり。日本神話なら、混沌としたところから、軽いものは上に、重いものは下に行くところから世界の始まりが語られる。このイメージが近いんじゃないかと思う。つまり、何もわからないモヤモヤしたところから、秩序が作られていく。重力の法則が現れ、光と闇とが分離し、世界は徐々に形を成していく。

この冒頭の句は「始めに秩序があった」と訳した方が(正確ではないし、翻訳に絶対の正解はありえないけれど)近いように思う。少なくとも「言葉」はピンとこないな……というのが、ギリシャ語原文を読んだ人間としての実感だ。

たぶん日本語訳は、英語の In the beginning the Word already existedを直訳したのだろうけど、英訳の時点でもう、本来のギリシャ語のニュアンスが薄れているのである。うーん……。言葉が理性によって扱われるものだとするなら「始めに理(ことわり)があった」と訳すこともできるか……。

翻訳に正解はない。聖書を訳した人も、正確であるより普及することを目的に、身近な言葉を選択しただろうことは想像に難くない。だから一般的には「始めに言葉があった」という理解でいいんだろう。だけど、哲学をやっている身としては、訳語にこだわりたくなってしまう。「ロゴス」は、訳しにくいギリシャ語の筆頭だ。「理」と訳すか、「秩序」と訳すか、あるいは「意味」なのだろうか……。言葉との格闘は終わらない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。