天才に出会ったこと

自分は中学生の頃に、初めてダヴィデ像を見た。そして、その時の感覚を今でもはっきりと覚えている。ダヴィデは「普通」にそこにいた。あまりにも当たり前に立っていて、宇宙が始まる前からそこにいるみたいに思えた。誰かが「作った」なんてことがまるで信じられない。最初からその姿でいるに違いない、と思えるくらい自然に存在していた。本物の作品というものは「すごい」と感じられないほどすごいものなのだ、と悟ったのはその時だ。

ダヴィデの作者はミケランジェロだとか、ミケランジェロは天才だとか、そんなことは知っているのだ。仮に他人から「ダヴィデ像って完成度高いよね」と言われたら、実際に見た経験がなくたって「そうだね」と言えるだろう。でも、そういうことじゃない。そういう言語を絶した「当然のようにそこにいる」という属性が、あの彫刻にはあった。

「私は余計な凹凸を削っただけ。そうしたらダヴィデが出てきたのです」というミケランジェロの台詞に、全く嘘はないんだろう。埋まっていたダヴィデをミケランジェロが発掘した、そういう言い方がしっくり来る。

案外、芸術というのは「意図を持ってゼロから作り上げる」より「理想像にとって余計な部分を削っていく」という引き算の作業なのかもしれない。そして「余計な部分」が何かを見極めて、それを適切に削ぎ落としていくことのできる人間を「天才」と呼ぶんだろう。

初めての海外体験になった、そのイタリア旅行自体にあまり良い思い出はない (人種差別的なこともされたし、体感的な治安もよくなかったので) 。たぶんこの先、自分から行くことはないだろう。それでもダヴィデ像を見たことだけは「本物」の体験として記憶に残っているから、イタリアを悪く言う気にはならない。傑作と呼ばれる作品には、それくらいのパワーがあるのだ。

それにしても、あの「当たり前に存在する」というすごさ、言葉にしてもなかなかわかってもらえないのだけれど、他の人たちはどう感じているんだろう?気になるところではある。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。