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アンティゴネ

「正しさ」はいつも絶対的なものではなくて、いつだって文脈に依存する。嘘をつくのはよくないけれど、つくことで人を救えるときもある。人を殺すのは悪いと言うけど、死刑は合法で、戦争になればむしろ良いことに反転する。人を取り巻く状況ひとつで、何が正しくて何が正しくないかがコロコロ変わる。時にはいくつかの正しさがぶつかり合って、どちらを取ったらいいかわからなくなる。

『アンティゴネ』はそういう話だ。これは主人公の女性の名前で、彼女の兄は国家に反逆した罪で殺される。その国では、反逆者を埋葬することは許されていない。権力者に盾突く者に、葬式も弔いも必要ない。そういう法律がある。それでもアンティゴネは兄を埋葬しようとする。家族の死を悼むのは、自然の命じる義務だと信じて。

親しかった者の死を悼み葬るのは「自然において」正しい。だけど国家の反逆者を弔うのは「人の法において」間違っている。この物語はそんな、自然の掟と人の掟の対立として語られる。どちらが良くて、どちらが悪いとは決め難い。それを決める基準がないからだ。

文脈が違えば正しさも違う。前に中国の人々について聞いたことを思い出す。
「中国の人は声が大きいと言うけど、あれは彼らなりの礼儀。あなたに聞かれて困るような話をしていないというアピールなんです」
嘘か本当かは知らない。だけど「国によって、そもそも『何が礼儀正しいか』の基準が違うのか、言われてみればそうだろうな……」と考えるきっかけになった。

日本だと「大きな声を出すな」的圧力のほうが強い。かつて通っていた中学校の廊下には、天井にデカデカと「しずかに」と書かれた看板がぶら下がっていた。レストランで大声で話するのは周りに迷惑だと思っているし、人に配慮するとは大抵の場合、相手の鼓膜に優しくあることだ。大声よりは小声のほうが、おそらく「礼儀正しい」。

だから正しくあろうと思ったら、まず状況を見極めるのが大事なんだろう。正しさは一個ではない。その場面で求められている「良いこと」が何か、誰にとって良いのか、それは誰にとって正しいのか。そこから考えないといけない。面倒だけどそういうものだ。

例えば「地球環境に優しく、資源を節約するのはよいこと」だとする。そのため水を使わないで風呂にも入らず、歯や髪も洗わないで生活したらどうなるだろう。水の節約にはなる。なるけれど、それでは社会生活ができない。誰もそれを「よい」とは言わない。

あるいは「嘘をついてはならない」とか。これはもちろん正しい。人が嘘ばかり言う社会は、まずもって回らない。逐一だれかの発言を、本当かどうか疑い検証するコストがかかる。これは社会にとってよろしくない。とはいえ常に本当のことばかり言うわけにもいかない。「私のこと嫌いでしょう?」と聞かれて、うんと答えれば不利な状況に置かれるときもある。「そんなことないよ」は嘘ではあるものの「正解」だったりする。

たまにたった一個の「正しさ」を信じてそれを主張する人がいる。自分が有能であるのを周囲に認めさせるべく攻勢に出て、疎まれれば「私は優秀なだけ、有能なのはよいこと」と言う。どうだろう。チームプレイをするのであれば、自分が自分がと前に出ることより、どうしたら雰囲気がギスギスしないで済むかと配慮するほうが「正しい」かもしれない。

自分も状況を捉え損ねるときはあるから、これは我が身に刺さる話でもある。

「それだけのことを言うのに、アンティゴネ持ち出す必要あった?」と突っ込まれるだろうか。印象的な話なので広く知られて欲しいとは思っている。彼女は首を吊って最期を遂げるので、文脈が違うことの悲劇にも思える。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。