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『完全無――超越タナトフォビア』第百十章

神は妄想である、と書いた正統ダーウィニスト的有名人、いや英国の進化生物学者がいたが、世界に対する科学的解明による手続きの、その翳で甘やかに育まれた科学的現象の定義、という信条も同じく完全なる客観的正義ではない。

ロゴスとはおよそ世界の解読ではなくて、誤読である。

神「学」、宗教「学」、生物「学」だけに限らず、神を扱うあらゆる「学」は、ヒトの「学」であって、どこまでもヒト独り独りが垣間見る妄想である。

なぜなら、そこらに転がる石からすれば、ヒトの「学」など虚妄、いや虚妄以上のナンセンスに過ぎない、ということはあらかじめ生物「学」的にも定まっているのだから。

そもそも、すべての過去、すべての未来、すべての現在がこの世界に完全無的に存在し得ない以上、神を妄想と定義することと同様に、妄想としての神を語るヒトの客観的データの共有も、共同幻想という主観に過ぎない。

そしてなにより、人間的スケールの枠内で拵えられた道具としての科学というものは、世界を解釈するための精巧な武器ではあるが、世界を解釈の外で保存するための聖潔な器とはなり得ない、ということを実のところ科学者たちも知悉しているはずだ。

すべての科学的検証は人間たちだけに効を奏す。

科学は君たちの役に立っていますか? 

という質問に対して現象学的に、そして新しい実在論的に、答え得る生きものが、ヒト以外に実在するような世界線・世界面を現成せしめるのは大変な困難ではないだろうか。

ぜひ狐族のわたくしの前にその世界線・世界面を風呂敷に包んで供与して頂きたい。

他の生きものには他の生きものによる精緻な世界の解釈があるだろう、という妄想を正統的に福音的に解釈できる可能性を科学者ならば目指すべきではないだろうか。

もちろん、狐であるわたくしにも、わたくしなりの世界の解釈と世界そのものの体現の表現があり、この作品がそれである。

制作物にせよ製作物にせよ、確かに科学の恩恵を免れるようなものは少ないだろう。

よって、一般的日常生活においては科学を仮想敵とするのはやめておくべきだ、とわたくしは考える。

しかし。

哲学的地平に降り立って何か世界についての本性を語るには、科学すらも懐疑への供犠として自己へと捧げなければならないだろう。

ところで。

なぜ何かがあるのか、なぜ「ある」が何かなのか、その答えに辿り着こうと奮闘するためには、無から無をとことん考察せよ、ということであって、自己から無を捻り出そうとすることや、知識の泉から無を濾過することには、効率的な哲学的探究はあっても、非哲学的な無体感というものは成立し得ない、ということに注目してほしい。


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