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『完全無――超越タナトフォビア』第百章

突然ではあるが、第九十章のポエムのリプライズならぬ、紳士で真摯なリメイク版をここでお届けしよう。

(……「「「拍手のアンプリファイア」」」……) 


人間はもはやことばを捨てられない。

猿の時代へと還ることもできない。

本当にできないのだろうか。

原生動物へと還れ、と言いたい。

ことばこそが原罪であったのだ。

狐であるわたくしもこのように人語を操っている時点で共犯者のスティグマを刻みつけられているはずだ。

ふっ。
 
ともかく還れ。

還れないがゆえに、還れと叫べ。

人間たちよ。

道端の小石の貴さにこそ頭を下げるべきではないのか。

人間は生まれてしまえば、それだけで、たったそれだけのことで副反応を生じる。

誰も彼もが副反応そのものになってそれを撒き散らす。

だがそれは後悔すべきではない愛でるべきリアクションである

つまり小さな愛の発見である。

どんな生命体も愛に対しては後悔することなどできないだろう。

後悔は愛ではない。

最も単純な、最も小さい愛ですら、そうなのだ。

いのちを体験すれば。

崩壊することのない無垢作用と言ってもいい、それは。

人間は愛に対してはいつの世も、どんな場所でも無垢であることしかできない。

そして。

無垢とは神をあきらめること。

いのちの誕生とともに神が隠れてしまうこと。

神をあきらめることとは神そのものを超えること。

あらゆる透明さの基準を編み出したのは神ではない、と悟ること。

愛は人間の透明性でしか鼓動しない。

自身は決して壊れることはない。

壊れるのではなく、壊していくのだ。

 己を取り巻くあらゆるものを。

あらゆるものに嫉妬して。

ないものねだりなのだ。

どのようなレベルの愛も。

そして。

最上級の愛とは何か。

愛の究極態。

それは何なのだろう。

しかしそれだけが、完全なる無を完全なる無として褒め称えることができるのではないか。

褒め称えつつ悶え死なねばならない。

究極の愛は。

世界ははもう何もかも完璧なのに。

それゆえに、いや、それだからこそ挑むのだ。 

完全無。

それに対する不完全さとして。

究極の愛とは裂傷。

罅割れ。

不安定。

ゆらぎ。

識ること。

感じること。

何もかもを分けること。

 作業。

愛の究極態はそこから始まる。

産声は蔵匿されたまま。

人間たちは気付かなかった。

あるべきではなかった不完全さ。

それこそがいのちの輝きであることに。

完全なる無に立ち向かうためのそれは秘密の祈りなのだ。

究極の傲慢だ。

すなわち力。

完全なる無を壊すための。

完全なる有を発動させるための奇跡。

人間たちは、それを識ること感じることができるのだ。

しかし驚異は始まっている。

そう。

――あらかじめすでに―― 

愛の究極態の中に人間たちはもはや投企されているのだ。

それは完全に何も無いということへの返答。

対話者無き対話。 

完全無とは究極のニヒリズム。

実はそれこそがしかし最高度のいのちの肯定を予言していた。

愛の究極態は完全なる有と共に歓喜する。

しかし感じない、完全無は、それを感じない。

完全なる有が完全なる無であるとしても。


追伸――道端に転がっているものは、存在以前性かもしれませんね。

いや、可能以前性かもしれません。


さて、チビたちの拍手喝采を再び頂いたその嬉しみの余韻のある内に、さらに完全無について語り続けよう。

転調だ。

完全無を主語や述語にしてはいけない。

完全有を主語や述語にしてはいけない。

完全無をあらゆる品詞から追っ払おう。

完全有をあらゆる品詞から追っ払おう。

完全無、完全有という文字を見詰め、そしてその文字を脳内のあらゆる時空から締め出してしまおう。

「ある」というフィールドに最大限の疑問符を投錨すべし。

ありのままの姿、という言い回しが、人間世界では頻出するが、ありのままの姿というものは、探すものでも、そのようになろう、とするものでも、得難いものでも、同定すべき何ものか、でもないのだ。

もはや、すでにして「ありのまま」は存在しないのだから。

「ある」ということの正体が「ない」ということ、そのような認識論の大転回を潔く全うすればよいだけである。

生活において、つまり日常社会において、ありのままになろう、とするところに、その意図に、企てに、意志に、願いに、祈りに、救いはもはやない。

いかなる「ありのまま」も完全に無であるのだから。

そのような気の利いた言い回しは空回りに過ぎない。

ありのままであり続けよう、と己を訓育することにも、同様に、救いはない。

完全なる無を続けることはできない。

完全なる無には幅がない。

かつて存在したことのないものが、継続性を帯びながら現在から未来へと同一性を保持してゆく、などということはあり得ないからだ。

迷妄の人間たちにとって救いとなる思考実験とは、完全無と完全有を同一視する、ありありとした世界を無いものとして眼差し続けること、だけである。


ところで、再びの転調。

ライプニッツのモナドという概念は無数に存在するらしい。

無数ということは、位置を持たねばならなず、物理学的に、人間的スケールの知によって求婚されている、という虚妄の束縛を脱し切れていないということである。

各モナドが無数である認識できるということは、モナドそれぞれが位置を持ちたい欲求のあらわれではないのか。

そのような推論はわたくしの【理】からは即座に廃棄されねばならない。

生きものの足というものは何度でも執拗にモナドを踏み潰すためにあるのだ。

世界はモナドから成立しているのである、という文言は頭を抱えて出頭すべきである、この「世界の世界性」の前に。

さらに、モナドに追加して、「絶対無」という単語も同じく出頭すべきである、と言っておこう。

世界は絶対無から成り立っている、という文言を携えて、自首すべきである。

唾棄されるべきは「絶対無」であり、完全無ではない。

西田幾多郎的「絶対無」とわたくしの説く完全無とは微妙な差異によって、しかし決然と隔てられているのである。

世界に出所はない。

世界が腰をあげて動き出すことはない。

世界が膝を抱えて座り込むことはない。

 完全無とはそのような「世界の世界性」である。


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