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Nirvanaと死のちがいそして咳とミシン

命は欲望
色即是空

起点のエピソードを書き始め、留めておく。するといつかその結びとなるようなエピソードが現れて、ようやく着地する。そんなスタイルが最近好きだ。

座禅会に参加した。
お線香に合わせて前半20分5分休憩を挟み20分ほどの後半。しんとした中で頭を空っぽにしようとするもうまくいかない。そのうち喉に埃や花粉のほんのひとつぶほどが喉の粘膜におそらく着地した。マスクしていたけどたぶんそんな、ミリもないくらいの小さな異物が入ってきたんだろう、喉が喉に異変だと身体に号令をかけ始めた。座禅会の他の人々はみなシンとしている。咳こんだら困るな。なんとか体内で処理できないだろうかと考える。喉は食道入り口付近を動かすことでなんとかしようとし、腹は身体に送る空気の量を調節することでなんとかしようとし、顔は自然としかめっ面。身体が脳の目的をなんとか達成しようとそれぞれの部位が頑張る。変な気分。すべてまとめて自分なのだがパーツごとが"頑張っている"人格があるように振る舞うのを感じる…。わたしという単位は「1」なのだろうか。ようやくのどの異物感が解消され、咳の予感は去った。と同時にひとつぶだけの涙が左目からこぼれ落ちたのだった。エホンオホンと騒ぐ代わりに、この私の身体の中の騒ぎが体の外部にもたらした変化は、涙一粒だけだったのだ。目に見えないものごとはとても大きい。

座禅では無心になれなかったが無心に近くなる方法が私にはある。「ミシンで縫うこと」。子どもが生まれてから何枚のスタイをこしらえたかわからない。型紙は使うものが決まっていた。布の組み合わせを決めるのだけは考えるということをするけれど、縫い始めてからは無心にミシンを走らせる。確かにうちの子どもたちはよだれが多く出ていたので替えは何枚あってもよかった。そしてそれを手作りするのもキライじゃなかった。個性的(はで)なスタイを見て手作りだと言うと「幸せそう」といわれることもたびたびあった。幸せな手作りしてるママだったかもしれずまあその通りではあったが、寝る時間を惜しんでそのことを行っていたことを考えると、あの行為はあのときわたしが”しなければならないこと"だった。ストレス解消だとか心を整えるような行為だったように思う。

久しぶりに集中してミシンを走らせた。「ストレスが溜まったのかも」とためしに夫に恨めしげに言ってみた。別に彼が原因というわけではない。今年の疲れがでているのだろうか、そりゃそうだ今年もいろいろあったのだ。「おおすばらしい、一石三鳥にもなっている、いや四鳥かもしれない」と夫は言い私のストレスが生産活動に転換されていることを喜んだ。確かに、ストレスはまあまあ解消され、生産物が生まれ、それを購入するはずだった代金が節約となっていた。

心の静けさはものすごく動的ななかで見つかるものだなあ。


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