翻訳を直してくれる人

 今日は、四半世紀近く前の思い出話をしよう。ある翻訳会社で、翻訳者兼翻訳チェッカーとして働いていたときのことである。
 入社時に「翻訳のことは何でもこの人に聞いて」と紹介されたのが師匠。元社員で、そのときはフリーランスになっていたが、会社と契約を結び、社に来たり自宅で仕事をしたりしている先輩チェッカーであった。
 「何でも聞いて」と言われても、何を聞いたらよいかもわからないので質問のしようがない。とりあえず言われるままに翻訳して、師匠、つまりチェッカーに渡す。すると師匠が直して納品する訳文に仕上げてくれた。どこが直されたのか自分で検証しようと思ったのだが、跡形もなく直されているので、いったいどこからどのように見ればよいのか途方にくれてしまうのが常だった。

helpの訳し方

 たまにコメントを返してくれることもあった。最初にコメントをもらったのはhelpの訳し方。
 わたしが最初に任せてもらったのはクライアント企業のプレスリリースだったが、そういう文書ではhelp (to) doという表現が頻出する。
このhelpをわたしは訳出していなかった。S helped to enhance the performance of the company’s entire system.という文なら「Sによって、同社全体のシステム性能が向上した」と訳していた。
 だが、helpは訳に反映すべきだと師匠はいう。この語ひとつで文の意味が変わってしまうから。helpがなければ「Sが性能を向上させた」だが、helpが入っていれば「Sが性能を向上させる手助けをした」というニュアンスだ。この2つはだいぶ意味が違うし、とくに米国では、こういう直接・間接の意味の差で訴訟が起こるので注意しろ、という意味の文章がWordの1ページにわたって延々と書かれていた。

intersectionの訳し方

 こんなこともあった。当時、日本語の語彙もあまり知らなかったわたしは、intersectionという単語はひとつ覚えで「交差点」と訳していた。
 すると、師匠から返ってきた訳文では「要衝」となっている。聞いたこともない語だったので、慌てて辞書を引いたことを覚えている。これはまずいと思って、日本語の語彙を仕入れ始めたのはあれがきっかけだった。

似ているけど違うことばにチェックが入る

 さらに、「保障」と「保証」、「合意」と「同意」、(契約書における)「治癒」と「是正」など、気をつけていないと間違ったり、チェックでもスルーしてしまいそうな語がある。こうした語をひとつひとつ直されたのがこの時代だった。翻訳を始めて数年しか経っていない、まだ自分の癖がついていないときにこういう師匠に出会えたのは、わたしの運が強かったのだろう。

それから10年経ち……

 そうこうしているうちに10年が経ったある日、数年ぶりに自分の翻訳を師匠にチェックしてもらう機会があった。どこかの会社のCSRレポートだった。
 その案件の納品メールが師匠から来たとき、本文に「知らない間にずいぶん上手くなったんだなと思いました」とあった。
 予想外の反応に、見た瞬間意味がわからず「だれのことを言っているのだろう」なぞと考えていた。それまで、お世辞であっても師匠にプラス評価をもらったことなど一度もなかったから。
 でも、これはもしかして、初めてほめてくれたということ? とわかるのに十秒くらいかかった。翻訳をしていてあれほど嬉しかった瞬間はない。
 その後わたしは会社を去ることになり、師匠とやりとりすることもなくなった。

誕生日を前に思い出す

 2023年になった。今年は暑い夏だ、と思っている間にもう8月だ。そこで思い出したのが「もうすぐ師匠の誕生日だった」ということ。終戦記念日が誕生日なのだ。
 いまは何をしているのだろうか。新しい訳書を翻訳しているのだろうか。久しぶりに誕生日メールでも送ってみようかな。

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