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平安時代の貴公子とその周辺 武者・平致光(むねみつ)

 拙作「あぐり」にもチラホラ登場する平致光。中関白家の家司(けいし 執事)として伊周と隆家兄弟に仕え、長徳の変の発端となった花山法王襲撃に加わっています。

 一説には「美男」だとか。
 どうして美男伝説があるのかといいますと……。
 花山法王がまだ帝であった寛和二年(九八六)
 内裏を警護する滝口の武者であった平致光が斎宮として野々宮で潔斎していた済子(なりこ)女王と密通事件を起こしているせいです。
 天照大御神の意を受ける「よりしろ」として、生身のケガレなき皇族の女性を伊勢神宮に捧げたのが「斎宮」のはじまり。
 済子女王についてもほとんど記録がなく、生没年も不詳。母を同じくする姉(隆子女王)も斎宮として勤めています。伊勢神宮の巫女として勤めを終えた姉から、
「皇族の女が占いで決められる斎宮なんて、辛くて寂しいだけよ」
 愚痴を聞かされて絶望していたかもしれません。
 斎宮として伊勢へ旅立つ前、身を清めるために野々宮に滞在します。そのとき、平致光(むねみつ)と密通したというわけです。
なぜか平致光(むねみつ)が一方的に済子女王を襲ったとはされず、
「済子(なりこ)女王が滝口の武者・致光を誘惑した」
 という説があって「平致光は美男だったにちがいない」とされたわけです。
 本当なら被害者であるはずの身分が高い済子(なりこ)女王。なのに「済子(なりこ)女王の方に責任があった」という記録があるというのはなぜ?
想像するに、彼女は斎宮になることを「イヤだわ。ほんとに不満よ。悲しい人生だわ」と周囲に愚痴っていたのかもしれませんね。
 だとしても、内裏を警護する滝口の武士・平致光を手引きして済子(なりこ)女王と引き合わせた誰かが存在しなければ、密通など無理ではないでしょうか?

 このエピソードに取材した小説が存在します。いえ、歴史小説ではなく、伝奇幻想小説とジャンル分けされるかと思います。
 ご興味があれば、ぜひ!

 ところで、二人の間に恋愛感情があったのかどうか?

 余談ですが、その当時の日本は唐の律(法律)を受け継いで日本の実情にそった律が適用されていました。強制性交のレイプの罪は
 未婚女性を強姦した場合は「徒」(ず 懲役)一年半。
 夫のある女性を強姦の場合は「徒」(ず 懲役)三年。
 ……平致光が罰せられたという記録も見当たりません。追捕されたとも、済子女王の周囲の者たちが責任をとったという記録もありません。
「被害女性が皇族で、しかも斎宮となるために潔斎しているときの不始末。おまけに花山帝が退位した直後だ。事件を公にするわけにはいかない。隠匿せよ」
 という配慮から非常事態のために隠蔽工作がされたのでしょうか?
それならなぜ、この密通事件がのちのち「春画」のテーマにされるほど有名になったのでしょう?
 すべては歴史の闇の中です。
 とにかく、事件のために済子(なりこ)女王は斎宮を免除されています。
同時進行的に、花山帝が藤原兼家(かねいえ)の策略で出家し、帝位を一条帝に譲位。兼家は一条帝の祖父として実権を握ります。
 兼家の嫡男が道隆です。その道隆の娘が定子。一条帝の中宮(皇后)になるわけです。
 ちなみに、兼家の「関白家」と道長の「御堂関白家」との中間にある中継ぎであるから道隆の家筋は「中関白家」と呼ばれています。
 
 済子(なりこ)女王との事件の後、正暦四年(九九三)には大宰府の大監(帥に次ぐ大宰府の要職)に就いた平致光ですが、次に現れるのは中関白家の家司(けいし 執事)として。
 
 地方(太宰府)に地盤を持つ武者、中央の権門にも仕える「都の武者」という二つの顔を使い分けている武士たちは、実は平安時代にたくさんいました。平致光もその一人というわけです。
 長徳二年(九九六)。
 中関白家の伊周が妻を「花山法王に奪われた」と勘違いしたことから花山法王襲撃事件を起こします。致光は「花山法王に弓を射た張本人」として検非違使に家宅捜索をされ、捕縛されかけます。捜索の網をかいくぐり、平致光は一族ともども巧みに逃亡。
 おそらく、自分の領地がある筑紫へ身を引いたのではないかと考えています。
 それにしても奇妙に思うのは、わたしだけでしょうか?
 済子女王密通事件でも、長徳の変でも、姿をくらますのが上手すぎる平致光。
(誰かが裏で支援している?)
 検非違使が不手際なのか、平致光の背後にある(かもしれない)武者たちの情報ネットワークが優れていて逃亡を助けたのか?
 とにかく、ここで平致光の名前は歴史の闇に消えます。
「でも、もしかしたら、平致光はこの人では?」
とささやかれるのは「平致行(むねゆき)」
「平致光の一文字を変えた平致行の名前で、刀伊入寇の際に隆家の配下の武将として戦っている?」
 一時期は大宰府の大監をつとめた平致光です。再び中関白家に仕えて、大宰府帥となった隆家のもとにいたのかもしれません。
だとしたら波乱にとんだ人生ですね。
斎宮を免じられた済子女王も名前を変え、別人として平致光こと「平致行」と幸せに筑紫で暮らした……というオチがつけば、なかなかロマンチックかつ分かりやすいのですが。




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