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金属製蝶ネクタイ誕生のきっかけ。

今回は「Metal Butterfly」が誕生した経緯をお伝えしようと思います。
私達がなぜ金属で蝶ネクタイをつくることになったのか?そしてなぜ蝶ネクタイがサプールと関係しているのか?
皆さんからご質問を頂くことが多かったトピックでもあったので、これからお話する内容は「Metal Butterfly」「サプール」に関する私たちの物語です。

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(コンゴで出会ったサプール達と)


プロローグ 日青工業について

私が経営する会社・日青工業は1988年に父が創業した精密板金加工の会社です。そしてその技術を生かして作られているのがアルミ製の蝶ネクタイ「Metal Butterfly」です。

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ちなみに精密板金加工というのは、主に産業用装置の筐体や部品を製作するお仕事で、具体的な例を挙げると医療機器や食品加工機、配電盤・制御盤・サーバーラック、またオフィス用の書棚やロッカーなども私達の業界が製作している製品です。

鉄・ステンレス・アルミ・銅などの板材を様々な形状に切り抜き、曲げて、部品によっては溶接なども行い、その後に塗装やメッキなどの表面処理を施して完成品になっていきます。
よく「プレス屋さん」と間違われることがあるのですが、「プレス」はその部品を作るために専用金型を用いて大量生産する業界、「板金」はそれから比べると小ロットで、専用ではなく汎用金型で加工する業界、今のところはざっくりとこんな分け方にしておきます。

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(板金加工の例 弊社HPより)

では「Metal Butterfly」が生まれたいきさつをご説明するために、まずは僕が26歳だった18年前の2002年まで遡っていきましょう。


①「倒産寸前」から「自社商品」の夢

私が日青工業に入社したのは26歳の時でした。
そもそも私は父の会社を継ぐことなど考えてもいませんでした。私が割と穏やかな性格なのであまり信じて貰えないことですが、極めて狂暴な性格の父に怒鳴られ、時に殴られながら育った私は、幼い頃から父に対し殺意を覚えるほど敵対心を持っていたので、地元に戻ること、ましてや一緒に仕事をするなんて、想像しただけで腹わたが煮えくり返るようなことでした。
実際、大学卒業後は横浜や都内でサラリーマンとして働きながら学費を貯めてCGや映像編集の勉強をし、そっちの業界に転職したいと考えていました。

しかし、ある時母からかかってきた1本の電話が、私の人生を変えることになります。

「シゲユキ、お金貸りることできる?」

私がこれまでに受けた電話の中でもおそらくTOP3に入るであろう衝撃度。電話口からも母の苦労が痛い程伝わってきました。ひとまず貯金の全てをすぐに振り込むと伝えた上で、一体どういう事情なのかを詳しく聞いてみると、父が経営する会社の資金繰りが相当なレベルでヤバいということが分かってきました。翌日、当時の勤務先の上司に相談し、最終的には仕事を辞めて実家に戻ることを決心します。

当時、日青工業は主要取引先の倒産などの影響もあって財務体質は極めて悪化しており、もはや倒産寸前ともいえる状態でした。

自分が立て直さなければ、終わる。

具体的な数字はここでは控えますが、経営に携わっている方にこの当時の状況を伝えたとしたら10人中10人が「やめとけ」と言うんじゃないかと思います。ただ、借入の連帯保証人とか色々な事情があって僕が立て直すという選択肢以外なかったというのが正直なところです。

そんな状況を乗り越えるため、とにかく必死で仕事に取り組みました。
まず自分の給料を会社から出すことすら厳しい状態だったので、昼間は会社の仕事をして、夜7時から夜中までは近くの食品物流センターで3年間ほど仕分けのアルバイトをしていました。

また、既存のお客様には「2代目が後継者として戻ってきた」ということを知って貰うため頻繁に挨拶に伺い、それと同時に新規開拓のための営業活動、そしてホームページ制作も独学で勉強しWEBからの集客にも力を入れました。

当時は受注していた仕事のほとんどが「下請け」あるいは「孫請け」だったために利益は薄く、忙しく働いたとしても手元にほとんど利益が残りません。そこでこれからは同業者や商社から受注する割合を徐々に減らしていき、その代わりに発注元と直接取引する「元請け」の割合を増やしていく方針を定め、生産管理体制や顧客対応力のレベルを上げていくことにも取り組みました。

ちなみに、そのおかげで当時15社だった取引先は現在50社を超え、しかもそのほとんどが元請け取引のお客様となっています。

このように厳しい状況の中で身を粉にしていた私の心の中には、

「いつか自社商品を持とう。自分たちで値段を付けられる商品が欲しい。」 

という「夢」が、切実な願いとして芽生えていったのです。


②自分たちの技術を生かした「ギフト」を

ちょうど20代後半から 30歳を迎える頃になると、周囲の仲間たちが次々と結婚していくようになります。
共に青春時代を過ごした仲間たちが結婚という節目を迎えるその瞬間に、私は「せっかくなら自分が職人として培ってきた技術やノウハウを活かしたプレゼントを贈りたい」と思うようになりました。

例えば、自分がもしパティシエだったらオリジナルのケーキを焼ける。もし花屋さんだったら自分がアレンジしたブーケをプレゼントすることができるでしょう。しかし、当時の私が仕事で製作していたのはブラケットやステーや配電盤など。およそプレゼントには程遠いものでした。

「精密板金で一体どんなモノが作れるだろう」

考えては試作をしてみるのですが、 なかなか納得がいくようなようなモノは生まれて来ませんでした。今では割とポンポン出てきますが、その頃は本当に理屈も分かっていなかったですし、よく広告代理店の方が1つの案件に対し最低100のアイディアを出す訓練をすると聞いたことがありますが、ある意味でその時期はアイディア出しのトレーニング期間だったのかも知れません。

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(ステンレスのお皿です。そういえばコレもまだ商品化してなかった)

今となれば分かり切ったことなんですが、「板金加工でできること」から思考をスタートさせてる時点で結果は大体見えているのです。


③「サプール」との出逢い

時は経ち2015年。
カラフルなスーツを着こなしたアフリカの紳士たちの写真が、ある日突然私の目に飛び込んできました。それが「SAPEUR(サプール)」です。

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(後々お会いすることになる写真家・SAP CHANOさんの写真集より)

まさにこの1枚の写真こそ私が初めて見た、そして私の人生を変えたサプールの姿です。
我々日本人には思いもつかないようなカラフルなスーツの配色、そして「服が汚れるから争わない」というシンプルでストレートなメッセージ。
私が彼らの虜になるのに必要な時間はごく僅かでした。

なぜサプールのメッセージが私の心に刺さったか。

幼い頃から狂暴な父から受ける仕打ちの最大の被害者は母でした。中学生ぐらいになると複雑な家庭環境にある同級生たちがグレていくのを目にしますが、私がもし暴走族をやったりタバコを吸ったりしていたら、誰より辛い思いをするのは母だということが分かっていたから出来なかった。
私はずっと他人が表す「怒り」という感情に対して人一倍敏感だったし、強烈な嫌悪感を抱いていました。しかしそんな自分ですら知らず知らずのうちに、父に対して抱く「怒り」「憤り」が会社を立て直していくためのエネルギーになっていたことに気が付くのです。
会社では何度も父とぶつかりました。殴り合いのケンカまでしました。そして「怒り」「負の連鎖」しか生まないことを知り、「怒り」でしか自分を表現できない張本人こそが実は「最大の被害者」であることに気が付くのです。

「争わいない」という姿勢は、そうした愚かな土俵に自分が降りていくことを防ぎ、自分の長所が発揮される最良な環境を保つことに繋がります。最高のオシャレをして争わいない生き方を貫くサプール達は僕にとってまさにヒーローそのものであり、私が心の中で抱いていたことをファッションを通してすでに表現していた人達でした。そんな人達がアフリカにいることは新鮮な驚きでした。

「いつか彼らに会ってみたい。そしてその時には彼らにふさわしい何かを自分たちの技術で作り出し彼らに贈りたい。 彼らと共に世界中に彼らのメッセージを伝えることができたらどれほど素晴らしいだろう。」

そんなことを真剣に思うようになりました。

とは言いつつも、そう簡単にアイディアが形になるわけではありません。ただ、頭の中には常に「ファッションアイテムで何か可能性はないだろうか?」というアンテナが立っていました。

ちなみに私がメロウな音楽をこよなく愛するのも、こうした「怒り」を好まないからだと思います。最新のメロウなアフロポップを紹介しているnoteの記事がありますので、よろしければそちらもご覧くださいね。



④バーのおしぼり

きっかけが訪れたのは突然でした。
2年後のある日、いつも通いつめているバーでお酒を飲んでいる時のことでした。
手持ち無沙汰になった時に誰しもがよくやるように、手元にあったおしぼりを何気なく手に取り、畳んでは広げ、また畳んでは広げ。 そんなことを繰り返している時に偶然おしぼりが蝶ネクタイみたいな形になったので、「ほら見て。おしぼり蝶ネクタイできた(笑)」なんて言った時に

「あっ!!!」

と思いました。

「アルミの板で今みたいな加工をしたら蝶ネクタイになる!」

そして翌日。会社に着くなりスタッフみんなを集めて、

「アルミで蝶ネクタイが作れそうな気がするから作ってみよう!」

と話しかけると、みんな口がポカーンと開いた状態。
「また専務が変なこと言ってる。。。」
そんな空気も漂う中、僕がおしぼりから蝶ネクタイを思いついた経緯を説明し、具体的にどんな風に加工すればカタチになりそうかのイメージを伝えて実際に取り掛かって貰いました。
ちょうど仕事のスケジュールにも余裕のある時期だったので試作作業はどんどん進み、昼前にはそれらしきモノの原型が出来上がったのです。確信をもった私はすぐにクラウドファンディングに挑戦することを決めました。

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(ちなみに初期に作った試作品はまだ蝶の形すらしていませんでした)

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(こちらはプロトタイプ弐号機。塗装ではなくアルマイト2色がけです)


ジリ貧状態の経営から自社商品を夢見るようになって、結婚する仲間に自分の技術を生かしたギフトを贈りたいと思い、サプールの存在を知って感銘を受けファッションアイテムに的が絞られ、最後はバーのおしぼりで蝶ネクタイに辿り着く。

こうして「Metal Butterfly」は誕生し、結果的にはサプールに会うためにコンゴへと向かうことになりました。
(その旅の顛末はこちらの記事にまとめています)


エピローグ

最後に。
父とは今はどうかって話ですが、父は私にとって大切な家族でありビジネスパートナーです。彼の長所と短所を全て受け入れ、私にない領域の情熱を持ち続けていることを最大限リスペクトしています。
私には、私の人生における「役目」がある。あるいは「使命」と言えるかも知れません。それを見つけることができたのは幸せなことだっだし、それが具現化したものが「Metal Butterfly」なのかも知れないと思っています。

サプールが言う「服が汚れるから争わない」は、ある一部の断片だと思ってます。例えば大きな意味で「世界平和」を望んでいるとかいないとかそういうことではなく、オシャレに着飾り紳士的な精神性を磨く文化というのは、彼らが生きてきた歴史の中にこそ本質があり、あのスタイルはあるべくして今もあるのです。
蝶ネクタイに魔法のような力はありません。しかしシャツを着て蝶ネクタイを巻きジャケットに袖をとおしてから玄関を出る時、いつもとは違う自分がそこにいることに気付くのです。自分の体に合ったスーツ、ハットやシューズや腕時計のバランス、姿勢やしぐさ。その瞬間に照明は灯されカメラは回り出し、自分が主人公である物語が動き出す。
そう、これは一人一人の内なる物語なんだと思います。そこでは誰かと争う必要もなく、魅力的なあなたは気心の知れた仲間や素敵な異性と最高の時間を過ごせばいい。そういう魅力を誰しも人間は持っているものなのです。

自分が思い描くようにはいかないのが人生ですが、思い描いた未来が現実になるのもまた人生。私自身の経験から思うことは、自分の心に鎧を着せている時ほど物事は望む方向には進まず、それらを脱ぎ捨てて解放された自分を表現し始めれば自然と望んだ未来に近づいていく、ということです。一人一人が持つ魅力はそのぐらいの力を持っているし、そうした行動や想いは人の心を動かし感動さえ与えることができる。私は誰かのそんな瞬間をこれからたくさん見たいと思ってますし、そのために自分の力を注いでいこうと思ってます。

長い文章になってしまいましたが、最後までお読み頂き本当にありがとうございました。アオキシゲユキでした。

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