見出し画像

4-冗談や俳句の誇張的な表現が通じないならおだまりください

 冗談が通じないということが息苦しいと感じるようになってきた。
「あんたなんか嫌いよ」という言葉を聞いた時に「好きなんだな」と思うはずだが、これを「嫌いなんだな」と捉える人がいるようだ。嫌いなときはおそらく「無理、きもい」などだと思うのだが、どういうことなのだろう。
 人は字義通りに言葉を使うわけではないから面白い会話ができるのだが、それを字義通りに受け取られてしまうと困ってしまう。そうならないために少し工夫をしなければいけない。
 冗談を真顔で言うと本気に捉えられてしまうため、笑いながら言ったりすることがそうである。しかし、真顔で言うから面白いこともあるのに、と思ってしまう。

 国語でさまざまな表現を習うと思うのだが、一種の冗談のように思う。字義通りに受け取ってはいけない表現がたくさんある。
「俺の刀が黙っちゃいないぞ」と言ったからといって刀が喋るわけではないし、何かの作業をしているところで「手を抜くな」と言われて手は抜けていないのにな、と思う人もいないはずである。
 こういったやや「誇張的」とも言える表現は、文章を書く上で重要なものである。そして俳句ではこういった誇張的な表現をよくしている。芭蕉の俳句から引用してみよう。

白露も こぼさぬ萩の うねりかな  【芭蕉】

 この俳句では「萩についている白露が萩のうねりでこぼれない」みたいなことを言っているのだが、そんなわけはない。水分量が増えていけば重さに耐えられなくなって溢れるに決まっているし、溢れなかったとしてもそれが萩のうねり具合の問題ではない。たまたまである。
 さて他にも、

塚も動け 我が泣く声は 秋の風  【芭蕉】

 こんな句がある。
 この句の中では「泣き声で塚も動け〜」みたいなことを言っているのが、これまた無理な話である。声如きで塚が動かせるだなんて調子に乗らないでもらいたい。

 しかし、俳句ではこういったことはどうでもいいのである。そして俳句はこういった表現を多用する。
 というかむしろ、俳句を作ろうと思えばこれくらいの誇張表現を必ず使って作って欲しいものでもある。
 俳句の面白さの一つはきっとこういったところにもあるのだろうと思っている。

 これはX(旧Twitter)上のリプ欄で誇張的に言葉の揚げ足を取ったりするのを見ていて思い出したことだった。なぜだか行間の読めなさを書き手のせいにする節がある風潮に少し恐怖を覚えている。
 よく「傷つく人もいる」と言うが、言論の自由を奪っているように思う。
 もう少し気楽に人とコミュニケーションが取れたり発言できたりするといいものだなぁと願っているしだいなのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?