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外の世界との循環の漠然としたあきらめ

外の世界との循環を止めているな〜と、ハッとしたので、noteを再開してみることにした。自動書記。

わたしが楽に、よりひろくファンから推されていくのには、わたしを物語るのが良いのだと聞いた。




昨年は周囲からの評価を避けて、substackを粛々と更新し、年の瀬にはしずかなインターネットを始めた。

自動書記タイプなのもあり、さまざまなことをなんでも連ねるので、どこからは出して良いのか、どこからは駄目なのか、を判別できない。

そういうのが面倒なのもあったり、どんな影響があるかとか意識してしまって、インターネットの深いところにいることで安心していたのかもしれない。

stand.fmを時折更新するが、特段、SNSでシェアもしない。

外側の世界との循環の、漠然としたあきらめ

そんなことに出会う。

いま、深い諦めの前にいる。イナンナの冥界下りのプロセスをたどるように。

生きる気力の低下。内に籠もり、外側との循環から逃げるように。

念ずれば相手に伝わる(伝わってしまうという恐れとも)というスタイルを取って。

生き物と直接関わり、何かを伝えることへの、根本的な諦め。

愛や豊かさの循環を、1番大好きな人たちとのあいだで、大きく育むことへの諦め。

わたしには、本音を伝えることができないという諦め。

誰かとともに、生きることへの諦め。

なんか、そんなものが出てきたんだよなあ。

出てきてくれて、ありがとう。そのあきらめに、とことん付き合うよ。

最近は、こういうときに、そう伝えてあげることが増えた。出てくるものは、いかにして認めたり、許したり、ゆきたいほうへゆかせてあげるか。


内なる世界に帰ると、とても安心する。大いなるものとともにいる。怖いものから守ってくれる。何も見えなくしてくれる。

みずからの宇宙に、還りたくなる。ぼんやり、いなくなりてえなあ、と思うことは時折ある。

そういう癖があることを自覚して、だからこそ、うちゅうゆうえいではなく、ちきゅうゆうえいを掲げています。

それでも、ちきゅうで生きていく。



抽象画家、コーチングセッションを中心に活動しています。


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