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夏の終わりと虚像と

2021年の夏は短かった。

ここ何年か秋という季節は消滅してしまったのかと思うほど短かったりしたけど、今年に関しては9月に入ってすぐ秋と呼べる気候に入った。

四季の中でいつが一番好きか。

過ごしやすさでは、春や秋に軍配が上がる。それこそ今時期の夜風とか最高に心地が良い。

だけど私は夏が一番好きだ。

服装的に身軽に過ごすことができるからとか、夏の甲子園があるからとかいろいろあるんだけど、一番は「夏休みっぽい雰囲気」が世の中に漂ってることだ。

別に自分が休みじゃなくても、夏休みっぽい空気感がこの世にあるだけで自分まで夏休みのような気がして、気持ちが少し軽くなるのだ。

社会人5年目にもなって、8月の仕事の時間は夏休みの課外授業のような気持ちで過ごしている。

そんな感じなので夏が好きだし、終わるのが切ない。心の夏休みが終わる気がするから。

今年は8月中旬に長雨があって真夏と呼べるような日があまりなかった気がするし、秋もちゃんとある。


よく地球温暖化とか環境問題が語られる時「昔の夏はこんなに暑くなかった」みたいなことを言う昭和世代がいる。

そのことがさも由々しき事態のように語られるけど、平成生まれの私としては今年のような涼しい夏にどこか物足りなさを感じてしまった。

これからも暑すぎない夏にするために環境問題に取り組みましょうと言われてもどこかモチベーションが上がらないんだけど、同世代のみんなどうなんだろう。


話変わって、夏の曲で好きな曲の一つが大江千里の『夏の決心』。

https://www.youtube.com/watch?v=qPNDktig5HY

母親の車の中で昔よく流れていて、「なっつやすみはーやっぱりーみじかいー」の歌詞に8月下旬の私はとにかく共感したものだった。

この曲に限らずだけど、夏の曲とか物語ってなんとなく「田舎にある祖父母の家に遊びに行った時」が似合う雰囲気のものが多い気がする。

井上陽水の『少年時代』とか典型的だ。

少なくとも田舎から東京のおばあちゃん家に行って、六本木ヒルズで遊んだみたいな世界観に似合うのものは少ない印象だ。

実際の私の場合、子供の頃は自分が田舎に住んでいて、母方の実家は同じ地元で、父方の実家は神戸の市街地で、当時の私の感覚からすると大都会だった。しかも祖母は賃貸マンションで一人暮らしをしていて、いわゆる都会の一人暮らしをしていた。

だから「田舎にあるおばあちゃん家に行って虫取りや川遊びをした」なんていうぼくのなつやすみ的な思い出は一つもないのである。

なのになんであんなにあの手の曲とかって情景が浮かぶんだろう。ありもしない思い出を勝手に懐かしく思うんだろう。

こんな感じで、ときおり「実はみんなありもしない虚像を愛でてるんじゃないか」と思う瞬間がある。

確かほんとの卒業式の時には桜なんて咲いていなかったのに、なぜか咲いていた気がする。

母の日にカーネーションなんてあげたことないのに、なぜかあげたことがある気がする。

私の家にもおばあちゃん家にも確か風鈴なんてなかったのに、なぜか風鈴の音が懐かしい。

真っ白でまん丸な団子を食べながらお月見なんてしたことないのに、なぜかあの団子がピラミッド状に盛られている画を思い出す。

(ネタじゃない形で)食パンをくわえた女子高生と男子高生が曲がり角でぶつかるマンガなんて実は一度も読んだことないのになぜか定番ネタだと知っている。

経験したことのない色々をなぜか経験したことがある気がするし、勝手にそれを懐かしがったり愛でたりしているのってなんでなんだろう。

こういうのって一体どこで刷り込まれるんだろう。不思議だ。

こんなことを意識しながら『夏の決心』のMVを見たら、私にとってはまさしく夏の虚像の思い出の宝石箱だった。

この曲が発売されたのは27年前の1994年。

さすがに27年前ってもう「大昔」になるのかな。

私の生まれた年なだけに大昔と呼ばれるのはどこかしっくりこない。(『夏の決心』はちょうど私が生まれた2日後に発売された曲で妙な縁を感じている。)

でもまあフラットな目で見たら大昔だよな。当時今の私と同じ27歳だった母親がもう54歳なんだから。新卒5年目だった人たちが大企業の部長とか役員とかになっちゃってるわけだから。

時代が流れると虚像は変わっていくのだろうか。

私より下の世代は一体何を懐かしいと思うのだろうか。案外懐かしいと思うものは変わらないのだろうか。今とても気になっている。

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