【映画】『スタンド・バイ・ミー』をアニメ・ゲームから見る~「懐かしさ」の考察~
『スタンド・バイ・ミー』はスティーブン・キングの小説*¹を原作に映画化したものだ。映画史における名作はいくつもあるがこの作品もおそらくその一つだろう。
本記事ではスタンド・バイ・ミーのもつ「懐かしさ」の側面についてアニメやゲームでの類似例を見ながら考察したい。
ただし、考察とつくが、ほとんど私の憶測でものを述べていることに注意されたい。
あらすじ
スタンドバイミーと「懐かしさ」の関係について
私たちは夏休みに線路を進んでいく彼らの姿を見ながら懐かしさを感じる。そしてその感覚はおそらく共通のものだろう。それは以下の例からわかる。
BUMP OF CHICKEN「アカシア」のPV
ポケモン25周年記念で出されたこのPVは今までのポケモンの集大成のようなPV編成だった。そしてその冒頭に出てくる左手側に壊れた貯水タンクを見据え、まっすぐ地平線まで伸びる線路を歩く少年4人組がリアル調のアニメで描かれる。
服装などは若干違うもののこれはまさしくスタンドバイミーのワンシーンだ。
実はこれは初代『ポケットモンスター赤/緑』での「主人公の家のテレビで流れていた映画」のセルフオマージュである。
ポケモンの解説などそれこそしなくても良さそうだが、これが登場するのが今から大冒険に出る主人公のスタート地点、自宅のテレビであることは重要だ。
すくなくともポケモンにおいて映画『スタンド・バイ・ミー』は少年時代の大冒険が始まることを暗に示している。
さらに初代ポケモン赤\緑発売年は1996年、スタンド・バイ・ミーの上映年は1986年でありおよそ10年後に出た作品だ。つまり、初代ポケモン時点で懐かしの映画枠に入りかけていた。
そんなポケモンにおいて重要な映画のパロディPVが25周年を前に公開されたこともまた重要な意味をもつ。
25年前に少年だった人はもう大人になっている。そんなあなたが少年時代の初代ポケモンを思い返す‥‥この構図自体が『スタンド・バイ・ミー』の冒頭を思わせ、メタ的な入れ子構造になっている。実際に懐かしいということを表すための記号的な役割として『スタンド・バイ・ミー』が用いられているのだ。
映画『STAND BY MEドラえもん』
本作の題名についているSTAND BY MEはそのまま映画『スタンド・バイ・ミー』から取られたものだろう。
内容としては原作における「のび太の結婚前夜」と「さようならドラえもん」を合わせた構成である。
これらのストーリーが懐かしいエピソードかと言われれば少し「?」が浮かぶ。わさドラになってから「結婚前夜」は2011年に、「さようなら/帰ってきたドラえもん」は2009年に放送しており、『STAND BY ME ドラえもん』が2014年なので内容としての懐かしさは別にない気もする。
泣きドラ第二弾$${\bold{*^2}}$$の内容は原作の「おばあちゃんの思い出」、「ぼくの生まれた日」などをMIXしている。
これらの泣きドラは、そのもの古いエピソードを持ってきたという意味の「懐かしさ」ではなく内容で感情に訴えかける意味での「懐かしさ」が$${\bold{*^3}}$$テーマだろう。この意味ではより『スタンド・バイ・ミー』に近い。
$${\textit{cf.}}$$あるいは$${\textit{stand by me}}$$の直訳「ぼくの側にいて」としての意味が主で「懐かしさ」は副次的かも知れない。主題歌「ひまわりの約束」のサビ部分「そばにいたいよ〜♪」
懐かしさの違和感
懐かしさには、実際に懐かしいもの(ポケモンでのオマージュ)と「懐かしさ」を訴えかけてくるもの(3Dドラ)があることがわかった。
ここでもう一度簡単に映画『スタンド・バイ・ミー』のあらすじを確認しよう。
ここまで聞いて映画の情景を思い出しているあなたは郷愁の思いがよぎっているかも知れないが、文字情報だけ見るとおかしな点に気づく
舞台がアメリカであるのはまあいいとして、おそらくこんな青春を経験した人はほとんどいないということを。線路沿いに死体を探す旅を小学生4人だけで決行する。そんな思い出がある方はまずもって皆無だ。
しかし、私たちの中には明らかに「懐かしさ」が浮かんできている。
これはデジャブ(既視感)に近い感覚だろう。実経験ではないものの、初めて見たのに覚える懐かしさはその通りだ。
ではなぜ私たちは『スタンド・バイ・ミー』にデジャブを感じるのか?
<夏>と<田舎>という舞台装置
スタンド・バイ・ミーが懐かしさを醸し出す理由の一つはそれが普遍的に懐かしさを感じさせる舞台装置上で演じられるからという仮説。
夏×田舎といえば、私たちはもうひとつ類似した作品を上げることができる。
そう『ぼくのなつやすみ』シリーズだ。本作はシリーズとして4作品ある他、最近はクレヨンしんちゃんを使った通称オラなつや正統後継作品とも言える『なつもん!』が発売され令和の時代でもこの組み合わせの「懐かしさ」は健在だと考える。
「田舎の原風景」がノスタルジックの題名詞であるように、田舎という舞台はその時点で郷愁を誘う効果があるのだろう*⁴。
「夏」はたしかに同様にノスタルジックの喚起を起こすが、「夏休み」のほうがより大きいように感じる。これは「夏休み」というイベントがほとんどの人が知っているモノだからではないだろうか?
夏休みの懐かしさはつくれる
夏休みに友達と毎日遊んだ記憶があってもなくても、夏祭りに花火を見に行ったことがあってもなくとも、海でスイカ割りをしたことがあってもなくても、虫取りに森へ虫かごいっぱいに昆虫を取りに行ったことがあってもなくとも「夏休みに起きるイベント」というものはなぜかほとんどの人が共通して思い出せるはずだ。
それは幼い頃に見ていたアニメや小説の影響だったり、親などから聞いた話だったりするかもしれない。おそらくそういった経験を実体験する前に私たちは夏休みに起きるイベントを予期する準備ができる。「夏休みらしさ」は自分で経験するまでもなく勝手に知っているものだ(仮に実体験したときに強く「夏休みのイベント」であることを実感するかもしれない)
したがって、私たちはたとえ、夏休みになんらいい思い出がなかったとしても、「夏休みに起きるはずのイベント」に対してノスタルジーを感じることが可能になる。
「ぼくなつ」のように夏休み中、都会から田舎に遊びに行き、そこで地元の子供達と仲良くなり、また別れる。というような体験をしたことある人は(スタンド・バイ・ミーより可能性はあるが)あまりいないだろう。
それでも「懐かしさ」をぼくなつの各イベントに感じるのはそのように作られた「夏休みに起きるイベント」の光景が私たちの脳内にあるからかもしれない。(あるいは当時「ぼくなつ」を遊んだ経験がそのまま私の中の「夏休みの原風景」を作っているのかもしれない)
実際に経験したことの懐かしさ
いやいや、自分は田舎で育ったし、夏休みのイベントは充実していたし、何ならいまではレトロと言われる時代を生きてきたんだという人もいるだろう。もちろんその懐かしさは本物だ。
ここまでは実体験の懐かしさについてあまり触れなかったが、作られた「懐かしさ」は実体験の懐かしさを部分的に喚起するように思う。
例えば、夏休みではなくともちょっとした冒険に裏山のような場所へ訪れた経験があれば、その経験とスタンド・バイ・ミーの夏の大冒険がダブる。
そもそも、映画やゲームあるいは田舎の写真などを見て「懐かしさ」を感じること自体が本来的には自分の経験から離れているはずだ。
したがって、懐かしさはそもそもが自分の経験と離れていても喚起されうる感情だといえる。懐かしさは何か懐かしさを引き起こすきっかけさえあれば自分の経験と関係なく起きる。そしてもし自分の経験と合致する箇所があればよりつよい懐かしさを感じることになるだろう。
そのため、元々作られた「懐かしさ」であっても、感情としては本物の懐かしさであるといって良い。(これが言えないなら、徹頭徹尾自分に関係あることしか懐かしめない)
『スタンド・バイ・ミー』の寂しさ
懐かしいという感情の近隣にはいつも「寂しさ」がある。もう戻れないような、取り返しの付かない寂しさが。
忘れることと思い出すことは真反対だ。思い出すことと懐かしむことが近似するなら、忘れた寂しさを思い出すのと懐かしむことは同じなのかもしれない。
だからこそ私たちは懐かしい感情に胸を打たれるのだろう。
『スタンド・バイ・ミー』はゴーディの回想に付き合いゴーディ自身の懐かしさと寂しさを追体験する物語である。
脚注
*1;原作小説の題名は$${\textit{"The Body"}}$$(直訳『死体』)であり、あまり情緒はない。
*2;本の帯でもそうだが、まだ読む前に「泣ける!」とか「衝撃的な結末が!」という見出しはどうかと思う。まあ作品の功罪というよりキャッチコピーを書いている広告屋の領分だから仕方ない。
*3;3Dドラの監督の山崎貴といえば『ALWAYS三丁目の夕日』の監督だ。三丁目の夕日では懐かしい50年台の東京の下町を舞台に繰り広げられるドラマが特徴の作品だった。懐かしいとは言うが、私は50年台を生きていないし、その上東京の下町に住んだこともない。そういう意味ではこちらの方が年代もふくめ『スタンド・バイ・ミー』に近いかもしれない。
*4;アメリカでは学年は夏休みで切り替わる。ここがわかってないと夏休みが終わった途端、仲の良かった4人組が疎遠になったことに違和感を覚えることだろう。初めてスタンド・バイ・ミーを視聴した昔の私はなんで疎遠に?となった。
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