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そして、考える

職場の調理の年上の女性から完熟トマトを頂戴した。
この季節、ご主人とともに貸農園で毎朝収穫に忙しいと言う。収穫の作業を終えて仕事に来ていると言う。私より十歳も年上である。しかし、とてもお若く見える。日曜日にはソフトボールの現役選手として活躍しているとも言う。

年齢は外見ではわからない。特に女性の年齢はわからない。失礼かと思い聞くことも憚られる。でも、どう考えても女性のほうが元気である。

寝不足でボッとしている私の背筋を毎回伸ばしてくれる元気な先輩である。
いつも笑顔の先輩、長く障害を持たれた方を厨房の中から見てきたと言う。
ひとりひとりの様子もガラス越しに見てきている。直接接しないにしても女性としての、母親としての視線で見ていらっしゃる。

死ぬまで答えは出ないと思ってはいるが、兄を含めて一人で生きて行くことの難しい人間がどうしてこの世にいるのだろうかと考えて来た。この職場で少しは答えに近づけることが出来るかと思ったが、そんなに簡単なことではないと思い出している。

台風の目となるそんな子を中心に家族がまとまり見かけは幸せな時期があるかも知れない。でもそれは仮にあったとしても続きはしない。親は老い、子は成長する。見て見ぬふりをする兄弟姉妹関係者たちは罪悪感と共に空の時間を過ごしてしまう。なまくらの人生経験を積み重ね、見てくれの知識だけを頭に詰め込み分かったように物を言い出す頃にはもう残された選択肢はいくつも無い。多くの家庭が最後はそんなふうに世間体だけを落ち着かせる。

でも私はそれを悪い事とは思わない。
兄のような人間を真剣に死ぬまで思い続ける人間が一人くらいはいるだろうから。
私たち健常者と呼ばれる種類の人間が生涯を通して自身を思い続けてくれる人と巡り会えることはかなりレアな事なんじゃないかと思う。
私も死ぬまで愛してくれる人に出会ってみたい。

障害者との生活は大変である。
並大抵のことではない。
どの母親もそれが自分の子どもだからと母が持つ本能と責任感から身を粉にして尽くすだろう。
でも、適当でいいと思う。
表現は悪いが適当でいいと思う。
親の愛を感じることが出来る子であるならば、親を愛する。
愛する親に楽をさせたい、楽しんで人生を送ってもらいたい。
間違いなくそう考えるはずである。

多様性が叫ばれる世の中、ダイバーシティに生きる私たちである。
親の立場、介護・支援者の立場から離れて障害者当人の立場で考えてもいいんじゃないかと思う。

考える。
そして、考える。
そして、朝採れの完熟トマトは美味かった。

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